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2011年4月号 No.452  2011.4.16

神はなぜ、この世の災いや苦しみをお除きになりませんか
晴佐久 昌英 神父
サラリーマンのオアシス−−ネランさんの遺言−− 加藤 泰彦

神はなぜ、この世の災いや苦しみをお除きになりませんか

                                   主任司祭 晴佐久 昌英

13★天地万物の主宰とはどういうことですか。
 天地万物の主宰とは、神が天地万物をおつくりになったのち、常にこれを保ち、またつかさどることです。
 キリストがお教えになったように、神は特に人間に対して父の心を持ち、霊魂とからだとにかかわるすべてのことを、特別にお計らいになります。これを人間に対する神の「摂理」と言います。すべて世の中のできごとは、盲目的な運命によらず、神の摂理によって導かれています。

14★神は人のことを特別にお計らいになるのに、なぜ、この世の災いや苦しみをお除きになりませんか。
 神がこの世の災いや苦しみをお除きにならないわけは、神が、それらの災いや苦しみから善を生ぜしめ、この世の苦難をとおして人をのちの世の幸福にお導きになるからです。特にイエズス・キリストは、その教えと行いとをもって苦しみの意味を教えられました。

 これは、わたしが子どもの時に教会学校で配られた「カトリック要理」の一節です。この本は、カトリック中央協議会が今からちょうど半世紀前の1960年に出版したもので、カトリックの基本的な教えが問答形式によってまとめられています。当時はカトリックの洗礼を受けるためにこの「カトリック要理」を一年以上かけて学ばなければなりませんでしたし、教会学校の子どもたちも暗記させられたりしたものです。難しい教会用語が頻出して親しみにくく、教条主義的な形式にも限界があってその後あまり使われなくなりましたが、中身はもちろん正しい教えであり、信仰の原点を確かめるために読み直す価値は充分にあります。
 特に、このたびの大震災のようにまさに「想像を絶する」出来事に際して「言葉を失う」体験をすると、恐れや虚無感にとらわれて、絶句したままの思考停止状態に陥ったり、立ち尽くしたままの信仰停止状態に陥ったりしがちです。こんなときこそ、信仰の原点を的確に教え、神の愛を明確に語る救いのことばが必要ですから、聖書はもちろんですがカトリック要理の歯切れのいい教えにも励まされたらいいでしょう。

 冒頭引用したのは、第二課「創造と主宰」の13、14項です。13項では神の計らいについて、14項では災いと苦しみの意味について説明しています。神は天地万物のすべてをつかさどっておられるというのですから、宇宙の法則も地球の仕組みも、生命の神秘も進化の歴史もすべてということです。とりわけ、人間に対してはまことの親としての愛をもって特別にお計らいになっておられ、それを「神の摂理」と呼ぶと強調しています。
 最近あまりこの「摂理」という言葉が使われなくなりましたが、いまこそもう一度摂理への信頼を深め、摂理へのセンスを養う時ではないでしょうか。「特にイエズス・キリストは、その教えと行いとをもって苦しみの意味を教えられました」とありますが、摂理を完全に受け入れたイエスはもはや、摂理そのものです。イエスは殺される前夜、天の父に祈りました。「わたしの願いではなく、あなたの御心のままに行ってください」。イエスを信じるということは、摂理を信じるということなのです。わたしたちキリスト者は、善である神の愛を受け入れて、すべての出来事のうちに神の摂理が働いていることを信じます。地震も津波も「盲目的な運命」ではなく神の摂理のうちにありますし、人の誕生も死も神の摂理のうちにあるということです。

 もちろん、地震予知をしたり津波防御をしたり、誕生を願ったり死を避けたりするのは人間として当然のことであって、そういうことをしても無駄だと言っているのではありません。ただ、そういうことをした上でなお起こった出来事に関して、そこに神の摂理を見出して受け入れることを神は求めておられるということです。
 大規模な災害や親しい人の死を前にしたとき、それを摂理と受け止めるのは難しいことです。しかし、人間はあくまでも「神の愛を受けるために神に造られた存在」である以上、どれほど理解しがたい出来事であっても、最終的にはそこに神の愛を見出し、それがすべての終わりではなく、むしろ何かとてつもなくすばらしいことの始まりであると信じなくてはなりません。摂理は、理解するものではありません。摂理は信じるものなのです。その信仰をこそ神は求めておられるし、その信仰に向けてわたしたちを成長させようと計らっておられるのです。
 摂理のうちに天に召された人たちが、尊い犠牲を捧げた聖なる人たちとして、天の国でどれほどすばらしい栄光に与っているかを、まだだれも知りません。知らないけれど、信じます。摂理のうちに生き残った人たちが、苦難によって成長し、いつの日か天の国でどれほどすばらしい栄光に与るかを、まだだれも知りません。知らないけれど、信じます。
 カトリック要理では、14項に続いて、聖書と教父の言葉が引用されています。
「苦しむ人たちは幸いである。かれらは慰めを受けるであろう。」(マタイ5・4)
「神は、神を愛する人々、すなわちご計画に従って召し出された人々とともに働いて、万事かれらのために益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8・28)
「神は、どんな悪も行われえないようにするよりも、むしろ悪からも善を生ぜしめるようにするほうがよいと考えられたのである。」(聖アウグスチヌス)

連載コラム「スローガンの実現に向かって」 第11回
《サラリーマンのオアシス−−ネランさんの遺言−−》

                                        加藤 泰彦

 新宿歌舞伎町の飲食店が集まるビルの4階にスナック「エポペ」はある。わたしがサラリーマンになってしばらくしてこの店ができた。かれこれ30年前になる。当時、この店に行くと黒のベストと蝶ネクタイで、ビシッと決めた巨漢のフランス人がカウンターの中から、「ハイ、いらっしゃーいませ」と客を迎える。カクテルの注文を受けると、颯爽とシェイカーを振る。このバーテンダーこそジョルジュ・ネラン神父、60歳。彼は「エポペ」を日本語に翻訳して「美しい冒険」とした。それはまさに、この場が彼にとっての“美しい冒険”であったから。
 このお店を開く前には、ネランさんは信濃町にある学生センター「真生会館」の責任者だった。いつも三つ揃いのスーツを隙無く着こなし、パイプをくゆらして、学生たちをあの大きな目でぎょろりとにらみつける、とても怖い存在であった――とくにわたしには。司祭になってすぐの1952年に宣教師として日本にやってきた彼は、長崎を経て東京で働くことになってから、ずっと学生たちとかかわってきた。その間、現代に生きる新しい神学の紹介と啓蒙もされた。彼が編纂した「ろごす――キリスト教研究叢書」13巻(1959-64、紀伊国屋書店)は当時、教会の現代における新しい意味について考えていた人々に大きな影響を与えた。
 やがて還暦近くなって、学生たちが自分の孫のような世代になったとき、コミュニケーションの限界を感じ、今度はサラリーマンへの宣教を思い立った。彼らがホンネを語るのはどこでだろうか、それは飲み屋で一杯やりながらだと考えた彼は、スナックを開くことをすぐに決めた。
 客たちがいい心地になったころに、ネランさんは「仕事はどうですか?」と声をかけてくる。仕事のこと、家族のこと、子供たちの教育のこと、いろいろ話しながら「あなたの生きがいは何なの?」とくる。逆に客から「じゃネランさんは何なの?」と問われると、「そうですね、わたしはキリスト!」。ネランさんにとって宣教は“キリストの汲み尽くすことのできない豊かさを伝えること”。たくさんのサラリーマンたちがここで洗礼を受け、たくさんのカップルも生まれた。
 あるときわたしは、「ちょっとこれを読んでみて」と小冊子を渡された。顔見知りの客が来ると一人ずつ手渡していた。ネランさんが作ったものだ。「72人クラブ」と題された小冊子は、サラリーマンによる宣教チームの規約集のようなものだった。職場でどのようにキリストを伝えていくか、またそれをチームで分かち合ってどのように継続していくか、そんなことが書かれていたと思う。「君は興味があるか?」と問われ、あいまいな返事をしていたら、「そういうことか」とそれっきりになってしまった。
 彼の口癖に「まったく意味が無い!」というのがある。たとえそれが世間で評価されているものや事であっても、歯に衣着せない。わたくしは何度云われたことか。ショックだったのは、多摩教会が現在の地に聖堂を建てることを話したときだ。「1週間のうち1日2日しか使わない建物のために、これだけのお金をかけることは、無駄だし、まったく意味が無い!」これは堪えた。
 常に考え、過去にとらわれない。90歳近くになるまで、きちんと本を読み論文を書いていた。ここ10年くらいは、たまに数十年前に学生だった人々が懐かしがって、ネランさんをたずねてエポペにやってくる。昔話にみんなの興がのってくる頃になると、彼が不機嫌になってくるのが分かる。アッ来るなと思っていると、案の定「そんな昔話は、まったく意味が無い。わたしが聞きたいのはこれから君たちが何をするかということです!」。ぷいと席を立ってお店を出て行かれる。残された人々はあっけにとられ、気まずい薄ら笑いでウイスキーのグラスを傾ける。こんな彼のエピソードは数え切れない。
 最後にお目にかかったのは今年の2月。91歳の誕生日に、入院されていた桜町病院にお見舞いにおじゃましたときだ。すい臓がんの痛みを緩和させるために、かなり強い薬がつかわれており、「頭がぼんやりして、新聞を読む意欲もわいてこないのがとてもつらい」とおっしゃっていた。常に考え続けてきた人にとって、「考えられない」ということがどんなに辛いことだったか。胸がいたかった。
 3月24日に亡くなられた。
 葬儀の当日、寺西神父さんから、こんな話しを聞いた。
 ネランさんが、最後の病室に持ち込んでいた使い慣れたバッグの中から、3冊のノートが見つかった。一冊は備忘録。もう一冊は人名録。今までかかわった人々の名前と連絡先が書かれていた。最近はお見舞いに来てくれた人たちの名前がしっかり書き込まれていた。そして、もう一冊が、日本語ノート。新たに発見した日本語がそのフランス語とともにきっちりメモされていた。最近は病名や、薬の名前など病気にまつわることが多かった。その中に、「双肩」という語がメモされていた。そして、この語のフランス語ともに、使用例が大きく書かれていた。

 日本の教会の未来は、信徒の双肩にかかっている。

 彼の遺言だったのかもしれない。 

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