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2001年5月号 No.333  2001.5.12

植えられた草木の根が付きました 宮下 良平神父
悲劇の国 − リトアニア 武藤 克治
 
植えられた草木の根が付きました。

                                     宮下 良平神父

 この5月14日は一年前に献堂式があった日です。あっという間に一年間か過ぎまし た。
 あの時は、皆さん一生懸命でしたね。他の教会から来られる多くの方々に、私たち 多摩教会共同体の喜びを伝えるため一人ひとりが真剣に準備をしておりました。
 ある方が一年前の日記を読み返してみたら、「今日も宮下神父さんはピリピリして いた。…」と書いてあつたそうです。あの節は、たいへんご迷惑をおかけしました。 さぞかし、私の雷で多くの方がビリビリと感電したのではなかったかと思います。感 電して不快を感じられた方々に心よりお詫び申し上げます。
 ところで、一年前に植えられた草木の全てが枯れることなく、しつかりと根を付け ました。一年前は、どれだけ残るのかと心配しておりました。そして、今年の冬に は3度の大雪があり、もうビンカマジョール(ツタのようによく延びている草)も枯 れたようになってしまったのです。ところが、春になってそのビンカマジョールが紫 色の可憐な花を咲かせて元気よく茂つてきたのです。日に日に大きく成長しているこ とがよく分かります。
 他の草木、たとえば、ウラジロモミ(もみの木)も新芽が出て生き生きとしていま す。根が付いて成長している姿が実感できるということはうれしいことです。

 さて、皆さんも実感しているように、毎週のミサに来られる方が、一年前より確実 に多くなっています。先週は連休の最中ということで、きっとミサに来られる方は少 ないだろうと予想しておりました。とこうが、座りきれない方が御ミサに来られて、 聖体拝領の最中から、もしかするとご聖体が足りなくなるかなと私は不安でした。そ してその不安は現実のものとなりました。終わりの方では4分の1にご聖体を分けまし たがそれでも足りず、最後の何人かは御血の拝領をしていただきました。
 仮聖堂でのミサでは、そのような不足するということはなかったのですが、多分こ れからもそうしたことは起こることでしよう。
 この1年間を通して、この場所にカトリック教会があるということを知つた信者も 意外に多いかもしれません。信者が増えてきていると同時に、カトリックに関心のあ る方が着実に増えてきています。また、勇気を出して初めて教会を訪れる方々も増え てきています。
 この場所に立つ白い大きな教会、そして十字架を鎌倉街道から見て、「いつかあの 教会を訪れよう」という思いを熟成させるのには、やはり一年は必要なのでしよう。
 この一年は私たち共同体がこの場所で根付くために、「信仰という木」・「福音を 宣べ伝える木」を、神様によって新たに植え替えられた一年といえるでしょう。根が 付くかどうかの不安をどこかで抱きながら、日々、神からの恵みの中に身を任せてい たのでしょう。
 献堂一年目を迎える春いっぱいのこの時期に、私は皆さんと心を合わせて、まだキ リストを知らない方々、初めてこの聖堂を訪れる方々、洗礼を目指して教会で学んで いる方々、そして神の愛に感謝し、日々賛美しているキリスト者の私たちの上に、
 「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざ し、愛にしっかりと立つ者としてくださるように(エフェソ3:17)」
と、祈ります。
                             神に感謝



          悲劇の国 − リトアニア

                                         武藤 克治

 首都ビルニウスの旧市街にある古いホテルで朝食をしていると、グノーのアベマリ アの曲が控えめに流れてきました。今日4月16日はイースター、マンデイで、80%以 上がカトリックの信者であるこの国は休日でした。

リトアニアの悲劇は、1940年にヒットラーがポーランドを、スターリンがリトアニア を併合したことから始まりました。

 今、私の隣でコーヒーを飲んでいる友人の杉原弘樹さんの父親が、千畝(ちうね) さんと言って、激動の真っ只中のこの1940年に、日本国の代理大使としてリトアニア に駐在しておられ、ナチスの迫害から逃れようとポーランドから大量に入国してきた ユダヤ人に対し、日本政府の訓令に違反して2ケ月間にわたりビザを発給しつづけ、 6000人の命を救ったことは、この国では有名です。
 当時まだ子供でした弘樹さんは長男でしたので、大量のパスポートにサインをした 為に無くなったインクを求めに、ソ連軍が制圧する市街を自転車で走ったり、領事館 (カウナス)から退去させられホテルに移り、汽車が動き出す瞬間までビザを書きつ づけた父親とともに色々と苦労をされたそうです。
 汽車が動き出し、最後のビザを書き終えた杉原大使は、車窓まで押し寄せて必死に なってビザの発給をと叫んでいたユダヤの人々に、皆さん全部を救えないで誠に申し 訳ないと謝ったのに対し、一瞬水を打ったように静かになった群集は、“シヤローム (有難う、平和で、さようなら)”と、心をこめて答えたそうです。

 翌年の1941年、ナチスがリトアニアを占領しこれらの脱出できずに残った人を含め、 25万人以上のユダヤ人がこの地において惨殺されました。
 1944年にこの国は再度ソ連により占領され、50万人以上のリトアニア人がシベリア に送られたり、KGBの弾圧により投獄され、処刑されました。
 それから46年後の1990年、リトアニアはソ連では初めての独立宣言をし、1991年に 市民の流血の犠牲とともに完全な独立を成し遂げました。先日訪日された、パルダス アダムクス大統領も、素手でソ連の戦車に立ち向かった人です。

 このような外圧、内圧に対する武器なしでの長期間の抵抗と独立、そして年間1000% と言った超インフレを乗り切ったリトアニア人のカトリシズムを基盤とした精神構造と、杉原さんの、地位、名誉、将来、あるいは自分を含めた家族の命までも担保に して、多くの人の命を救った究極の人類愛、そして、これらの事について一切を語らず、大使の地位を剥奪された不名誉の名のもとに悠然として人生を終えた、本来の武士道として厳存した自己犠牲の精神構造とが、両者の共通する心の底辺で深く重なり合っている と私には思われます。

“強くなりたい”
リトアニアを辞するとき、弘樹さんの親友のアドルファスさん(前リトアニア首相) がいったこの一言は、悲劇的な歴史を自ら命がけで体験し、そしていまだに多くを耐 え忍んでいる彼の人生からにじみ出た、真実の重い言葉と感じられました。そして別 れ際に弘樹さんの手を握り、元気でやってくれと言いながら、じっと彼を見つめてい たアドルファスさんの目ににじみ出ていた暖かさは、単なる友情のそれなどではなく、 人間のぎりぎりの命の尊さを共に経験した同志として、深く共感している人間愛その ものの暖かさであると私の目に映りました。

 今度は地球を救おうと言ってなくなった千畝さんの遺言に基づき、民族、宗教を超 えて地球環境を守るなどを目的として、日本にNPO(非営利事業団体)杉原千畝命の ビザ、を開設し、7月にはリトアニアにおける活動拠点設定、10月には、カウナスに ある杉原道路に、400本の桜の木を植えるイベントに参加する予定です。
 イースターのミサは12世紀に建てられたカテドラルで、落ち着いてあずかることが できました。
                    2001年4月25日
                         
人口 370万人
広さ 北海道の80%
言葉 リトアニア語
民族 リトアニア人(80%)
政治 共和国
産業 農業
気候 寒い
失業率 12%
宗教 カトリック
芸術 高度
GDP 2%成長率
背が高い (美人が多い)
名産 琥珀
交通 直行便なし
スポーツ バスケット 強い

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