2014年3月号 No.487

発行 : 2014年3月15日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 】


喜びの四旬節

主任司祭 晴佐久 昌英

 教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」の冒頭部分(6)に、次のようなユニークな表現があって、思わずニヤリとしてしまいました。
 「復活祭なしで四旬節の節制をするように振舞うキリスト者がいます」。
 確かに、復活祭なしの四旬節ほど滑稽なものはありません。四旬節はあくまでも復活祭の準備期間なのであって、復活の喜びへの希望に支えられて過ごす、恵みの時だからです。
 しかし、実際には、救いの喜びを知らずに暗い顔で信仰生活を送る人が少なからずいるのが事実です。自らの罪を呪い、自らの滅びを恐れ、自らを責め続ける人たちです。それにはそれぞれのつらい事情があってのことでしょうから、一概に本人のせいだとも言えませんが、仮にも洗礼の秘跡を授かったものとして、まずは復活という栄光の輝きをしっかり見つめて、キリスト者においてはすでに復活が始まっているのだという、誇りと喜びを取り戻してほしいのです。
 フランシスコ教皇は、続けて次のように言っています。
 「もちろん、深刻な困難のために悲しみに落ち込む人々がいることを私は理解しています。しかし、たとえ最悪の心配ごとを抱えていても、心に秘められた確かな自信として、ほんの少しずつでもいいから、信仰の喜びを目覚め始めさせなければなりません」
 四旬節は、信仰の喜びに目覚め、福音の喜びを再発見するときなのです。

 「復活祭なしの四旬節」のようなキリスト者は、おそらくは「復活祭なしの四旬節」のような教会によって育てられたのでしょう。復活の喜びよりも十字架の苦しみに焦点を合わせ、復活による救いよりも罪と裁きを強調する教会です。
 まさにそのような罪と裁きの律法主義の桎梏から、すべての人類を解放したのが主キリストの死と復活であったはずです。そうして「もはや死は滅ぼされた、我々は罪も死も恐れない、まことに主は復活された、アレルヤ!」というのがキリスト教の出発点であったはずなのに、いつのまにか、罪に苦しみ、裁きを恐れる旧約時代に逆戻り、というような教えや信仰が存在するのはどうしたことでしょうか。
 理由はただ一つ、本当の意味で、主の復活を信じていないからです。
 復活の主を信じ、復活の主と共にいる人が、それほどまでに罪を強調するはずはありません。逆に言えば、復活の主に出会った喜びを知らない人ほど、罪を強調するのです。
 まずは、「主は復活した」という福音の原点を、信じてください。
 弟子たちの証言を、教会の生きた証しを、ミサにおける主の現存を、信じてください。
 復活の主に出会った人、その証言を信じた信者たちは、一つになってすべてのものを共有し、「喜び」と真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたと使徒言行録にあります。(2・44‐47参照)
 そのような喜びと一致があったからこそ、信者たちは「民衆全体から好意を寄せられ」たのであり、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」のです。

 2014年の四旬節が始まりました。復活の喜びを新たにする、恵みのときです。
 四旬節第一主日の洗礼志願式では、38名の求道者が洗礼志願者となりました。まさに主は、「救われる人々を日々仲間に加え一つにされ」ています。カトリック多摩教会は、初代教会のような喜びに満たされている教会なのです。それはすなわち、主の復活を信じる仲間たちの教会である、ということです。そうでなければ、だれが仲間に加わりたいと思うでしょうか。
 洗礼はイエスの死と復活に与かることであり、やがて天に召されるときの真の復活の先取りでもあります。その意味では、人生は、天における復活祭を準備する四旬節、それも喜びの四旬節なのです。真の復活祭を待ち望みつつ、生涯キリスト者として、使徒言行録のペトロのように喜びと情熱をもって、主の復活を宣言していきましょう。
 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは今、このことを見聞きしているのです」(使徒言行録2・32‐33)

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第39回
「6日+23時間はこの1時間のために」

諏訪・永山地区 浜野 美穂

 皆さん、こんにちは。私は2010年4月4日に多摩教会で洗礼を授かりました。私たちが「晴佐久1期生」と呼ばれていることをあとで知りました。受洗までの道のりは感想文集に書きましたのでここでは述べませんが、とにかく「導かれた」としか言いようのない不思議な経過でした。偶然に見える出来事の偶然に見える積み重ね……しかしそれこそ神さまの計らい、必然だったのだと感じています。
 受洗してからもうすぐ4年になります。人間の恋愛モードは脳内ホルモンの分泌の仕組みにより3年が限度だそうですが、幸いに信仰の喜びはますます新鮮です。人生の半ばを過ぎて初めて出会ったカトリック、まだまだ知らないことばかりで、受洗後も入門講座に出続けています。できる時には真生会館の森司教さまの講座に出たり、いろいろな修道会の黙想会に参加したりしています。ご縁があってカトリック学校で2年間働くことができたのは人生の大切な思い出となるでしょう。

 以前の私も含めて多くの日本人は「特定の宗教に入ること」イコール「それ以外の宗教を否定すること」と思い込んでいて、だから家に仏壇がありお寺にお墓があり、初詣に神社に行き受験の時はお守りをいただき、結婚式は教会で……という生活を「クリスチャンになったら、すべて改めなければいけない。けれどそれはできない」と思いながら、何となく続けているのではないでしょうか。
 しかし洗礼とは、そのように服を脱いだり着たりするような生活様式のことではなく、自分の存在そのものの本質に気づくことだ、というのが私の実感です。神は愛であり、私は神に愛されてこの世に生まれ、「今日この時も生かされている」と知って感じる時に、心から喜びが湧いてきます。40代後半で私がやっと出会ったイエスさまの眼差しは、12年の長血を患ってイエスさまの服に触れた女性を見つめた、その愛の眼差しでした。そして神さまが私たちに望んでおられるのは「互いに愛しあいなさい」ということです。細かいことはどうでもよくなってきます。

 ミサに出始めた頃、晴佐久神父さまが「1週間の6日と23時間は、このミサの1時間のためにある」と仰ったのを聞き、さすがにそれはちょっとオーバーな表現ではないかと感じたことを覚えています。
 神父さまは最近のミサでもそう仰います。しかし今の私は「そうそう、そのとおり」と思って聞いています。これは私の信仰が成長した証しでしょうか?入門講座とミサというオアシスで、たくさんの恵みの水をいただいて、日々を支えられている私です。
 しかしそれに終わらず、私につながる多くの方を、もっとこのオアシスへいざないたいと思います。
 以下はある方がくださった言葉です。「あなたに会えて人生が好転したという人が現れたら、それは話を聞いてあげたからでも、良い言葉のアドバイスからでもなく、誰がそれを言ってくれたかなのです。あなたの人格に触れるからなのです」。
 もちろん、私の人格など欠点と弱点でいっぱいですが、私という一人の人間を通して、少しでもオアシスの風と香りを運ぶことができればうれしいな、と思っています。

【 例会報告 】


「初金家族の会」3月例会報告

担当: 志賀 晴児

 3月7日(金)、四旬節に入っての「家族の会」では、身近にあった微笑ましい話題を披露しあって、なごやかなひとときを過ごしました。

 次回は4月4日(金)午前11時から、初台教会の菅原 悟さんの「今の時代、神様は私たちに何を求めておられるか」と題してのお話を予定しています。

 ごミサの後、午前11時から、信徒館1階で行います。
 多数の方のご参加をお待ちしております。