2013年6月号 No.478

発行 : 2013年6月15日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 】


50年後の多摩教会

主任司祭 晴佐久 昌英

 他の教会から主日のミサに来られた方が、多摩教会の印象についてよく言われることといえば、「明るい教会ですね」や「元気のある教会ですね」、そして「子どもや若い人が多いですね」でしょう。(「聖堂のイエスさまが浮いてますね」というのもありますが)
 ちょっとほめ過ぎな気がしないでもありませんが、正直な感想としてありがたく受け止め、いっそうそのような教会であるよう努めたいと思います。
 「明るい」というのは、文字通り聖堂が明るいというのもあるでしょうが、やはりみんなが笑顔で楽しそうにしているからでしょう。ミサの後、一緒ににぎやかに食事をしたり、オアシス広場でお茶を飲みながら談笑する姿は、本当に和やかでいいものです。
 「元気がある」というのは、ミサに参加する人がエントランスまで溢れたり、聖歌を元気いっぱい歌う様子をはじめ、それぞれの係が様々な奉仕をする姿や、入門講座など多くのミーティングを開いている様子が印象的だからではないでしょうか。
 さて、しかし。
 「子どもや若い人が多い」というのは、どうでしょうか。確かにいるにはいますが、現在の多摩教会の主日に見かける「子どもや若者」は、ぼくのイメージする普通の小教区教会からすればむしろ少なめであって、決して特別に多いとは思えないからです。多いと感ずる人がいるとしたら、それは自分の教会や他の教会に比べて、ということなのでしょうが、もしそうならば、そんな現状はとても残念なことでもあります。

 子どもや若者のいない教会は、やがて衰退する運命にあります。
 特に、教会を我が家のように感ずる幼児洗礼の子どもが一定の割合でいなければ、その教会に未来はありません。教会員をすべて成人洗礼によってそろえるというなら別ですが、現実には小教区教会を支えているのは幼児洗礼者と成人洗礼者がおよそ半々です。
 成人洗礼者はその教会を支える上では即戦力であるのに対し、幼児洗礼の子どもたちが教会で活躍するには、時に半世紀近くかかるため、どうしても子どものことは後回しになってしまいがちです。原発問題などもそうですが、大人たちはいつも眼先のことで頭がいっぱいで、半世紀後のことをちゃんと考えていないのです。
 かくいう私も、物心つく前から教会の中を奇声をあげて走り回っていた幼児洗礼者ですが、半世紀にわたって教会を見続けてきて断言できるのは、奇声をあげて走り回る子どもは、教会の宝だということです。そして、それにやっと気づいてから子どもを取り戻そうとしても、もはや手遅れだということです。いわゆる少子化問題の一番の原因は、この「未来への想像力の欠如」なのです。

 「明るくて元気な多摩教会」がこれからもずっと続くためにも、ぜひ、「子どもがいっぱいの教会」を目指しましょう。もちろん、子どもの絶対数を急に増やすことはできませんが、まずは、子ども連れのお母さんが「来やすい環境」を整えることはできますし、また、お母さんたちの「子育て支援」をすることで、子どもを産み育てやすくし、孤立しがちなお母さんの悩みや負担を軽減し、教会と子育て家庭とのつながりを深めていくこともできるはずです。
 「来やすい環境」というのは、ミサや様々な集会、イベント時に、子連れで来ることのできる、いわば「乳幼児のバリアフリー」です。駐車場の優先、ミサの時に子どもが泣いても構わないという共通の了解、ベビーベッドやキッズコーナー、おむつ台や授乳室の設置、イベントの時の託児などが当たり前の環境である教会ならば、お母さんたちは足を運びやすくなります。
 「子育て支援」については、0〜3歳児くらいの子どもとお母さんを対象に、毎週もしくは月に2回ほど、週日の日中に開く集会が一つのイメージです。信者はもちろん、地域の方に広く呼びかけます。保育士やベビーシッターが子どもたちの面倒を見たり遊ばせたりして、その間お母さんたちは専門のスタッフから子育てのヒントを学んだり、お互いに心の問題を語りあったりします。神父の話を聞いて福音に触れたり、教会家族と出会うかけがえのない機会にもなるでしょう。
 「多摩教会の少子化対策」について、先日の司牧評議会でも呼びかけましたが、まずはこの二つを、少しづつでも具体化していければと思っていますので、ぜひご意見やご提案をお寄せください。実際に子育て中のお母さんたちの声を聴くなどしながら、奉仕チームを作ってチャレンジしていけたらと思います。
 まずはみなさん、50年後の多摩教会を思い描いてみてください!
 それは、どんな教会ですか?

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第30回
「心のオアシスを求めて」

稲城地区 竹内 博年

 山歩きが好きな私たち夫婦。毎月1、2回は日帰り、あるいは3〜4日がけのハイキングに出かけます。
 重いリュックを背負い、汗みずくになり息を切らせながら足を引きずって一歩一歩頂上を目指して歩きます。喉はカラカラ。そんな時大好きな歌手さだまさしの「自分の重さを感じながら坂道を登る。いくつもの峠を越えて、もっともっと上を目指す」と心の中で唱えながら歩き続けます。
 それでも疲れきって、「もう一歩も歩けない」と、くじけそうになる頃、山あいの湧水に救われたことが何度もありました。(白馬、槍ヶ岳、燕岳、会津磐梯山、安達太良山、、。)冷たく清々しい湧水! 口いっぱいに含み喉をうるおし、顔を洗い、タオルを濡らし首に巻くと、不思議と元気が蘇り、再び歩き続けることができました。まさに「砂漠のオアシス」です。
 そして遂に頂上。雲上に見え隠れする山々、はるか下方に見晴らせる景色に、登りの苦痛は一瞬にして消え、天国に少し近づけたかのような神々しい気持ちがし、また次の挑戦へと誘われます。

 ところで、「砂漠のオアシス」で思い浮かぶのはシルクロード。「もっと若ければシルクロードを巡る旅もしてみたかった」と夢を馳せます。
 その昔、世界交易の要地だったシルクロードのオアシス都市は、人種、国籍、宗教、老若男女を問わず、あらゆる人々が旅の途上で憩い、交流しあった平和な聖地だったのではないでしょうか。
 現代では宗教・人種・国籍、信条の違いから、共存さえできぬかのように争いが絶えないのは何故でしょうか。
 私たちの日々の暮らしでも貧富の差、考え方の違い、病気や怪我などの悩みや都会の喧騒・人間関係のストレスから、家族間でさえいさかいが増え、日々暗いニュースばかり目に付き心の傷が絶えません。
 一見仲良さそうに振舞っている私たち夫婦にも、ちょっとした揉め事が途絶えることがありません。でも毎週のミサで、晴佐久神父様のお話を聞くようになってから、何故か二人とも、心癒され「だいじょうぶだよ」と励まされ、新しい週を歩み続ける元気を得ることができるようになりました。
 多摩教会は、私たちの心のオアシスとなりました。このオアシス、自分たちが救われるだけでなく、ひとりでも多くの方に味わって貰いたく仲間を増やせたらと願っています。