最新号

2018年9月号 No.541

発行 : 2018年9月15日
【 巻頭言:主任司祭 豊島 治 】

仲良くします

主任司祭 豊島 治

 記録的な猛暑と度重なる災害に見舞われた夏でしたが、今なお復興に向けて困難の途上にある被災地の方々に心を向け、できる限りのサポートに力を合わせてまいりましょう。

 7月に起こった「西日本豪雨災害」については、朝日新聞や日経新聞の情報によると、避難勧告・指示の対象は6万人にものぼる大きなものでした。200カ所以上で川の水が溢れ、被害が出ました。現在、カトリック教会として広島教区の設置した各所のボランティアセンターが機能し、継続的に支援しています。
 9月4日の台風21号では、大阪湾の高潮が3.7メートルに達したと推定されると発表されました。空港の機能改善状況が多く報道されていますが、大阪だけでなく、四国・近畿地方を含めた広域で、建物損壊・土砂崩れなどの打撃を受け、今も停電の中で過ごしておられる方もいらっしゃいます。
 9月6日の地震は、北海道はじめての震度7という恐怖もさることながら、土砂崩れ・液状化による生活基盤のダメージや、広い範囲で起こったインフラのダメージも大きく、気温の低下も今後に響いていくといわれています。カトリック教会では、札幌教区のカリタス札幌が、ボランティア派遣をしています(参加できる方は北海道内在住の方に限られています)。

 多摩教会では、8月末から2週間、インド、ケララ州の水害に対しての緊急募金を行いました。8月の中旬ミサの参加者が、スマートフォンの翻訳アプリを使って、現地への祈りのお願いをされていました。日本ではほとんど報道されていない災害ですが、国際カリタスの情報をみると緊急メッセージとなっており、多摩教会内での呼び掛けとなったものです。短期間の呼び掛けでありましたが、90人弱の方が応えてくださいました。カリタスジャパンを通じて現地に送られました。

 日常の中で与えられている情報が、いかにほんの一部で偏っていたかということを、災害が起こると感じることがあります。報道情報が多い地域とそうでない所。わかりやすい映像が重視され、映像化しづらい所は伝えられていない伝達の限界。それは、「行ってみないとわからない」ということなのでしょう。そうかといって、各々は、日常で動ける範囲が限られています。唯一だれでもできること、それは、私たちは「これでおわり」という自分で定義づけして感心にリミットを設けることではなく、起こっている出来事を記憶し寄り添っていきましょう。その前向きになる姿勢は私達の信仰にある十字架にあります。わたしたちの「どうしようもない」というあきらめの気持ちは、十字架を見上げるとき、「まだ、いける」という意識を起こします。

 私は夏の終わりに、短い時間でしたが福島のカリタス南相馬に行ってきました。今まで車で行っていましたが、仙台から常磐線を使って、最寄り駅の原ノ町駅に向かいました。休日の常磐線は、若い人が仙台に遊びに行った帰りでしょうか、多くいました。仕事で旅行で来た方もおられました。被災した坂元、亘理にも多くの乗降がありました。
 カリタスのボランティアベースは、有名なスーパーボランティアさんみたいに、黙々と作業するだけでなく、地域の方々とつながりをもってきました。今年で5年。被災者の方々が地域の人々の集まりの奉仕をしてくださる場にカリタス南相馬がなっていました。現地のスタッフにもなっていただき、会議のときにも、話してみなければわからない心情を吐露していただき、それを受け止め、今後の展開を考えて、共に歩もうとしています。現地で話して受け止めたのは、「こんな悲惨なことは二度と起こらないでほしい」と「生きる喜びを皆が感じてほしい」です。愛の奉仕という意味のカリタス。この言葉をかみしめて帰りました。

 災害は他人事でありません。多摩教会では大掃除の日に「避難訓練」を行っています。意識して参加を願います。次回は大掃除のあと、救命や災害防止の勉強の場を設けることになっています。どうぞ参加してください。知っていて損はない事柄です。
 でも、東日本大震災のあと、仙台教区の災害対策本部長がおっしゃったことが記憶から離れません。とっても大事な言葉だったからです。それは、
 「一番の災害対策は、『日ごろからみんな仲良く』だよ」

【 連載コラム 】


人生の旅をいっしょに
= ウエルカムのサインをあなたからあなたに =
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第91回
神の生命と、私たち人類の憧れ

福音史家ヨハネ 山口 泰司

 私たちは、日々、様々な想いの中に生きている。差し迫った現実の問題から、とりとめのない夢想に至るまで、私たちの多様な想いは、千変万化で止むところを知らない。だがしかし、いまだ手にしていないものを、何とか手にしたいという切なる願い、問題解決への止みがたい憧れなど、人間の表層から深層にわたる多種多様な営みの一切を、均しく根底で突き動かしているのは、ただ一つ、聖なる「神の国」への憧れに他ならない。
 私たちが、自然の美しく荘厳な姿を前にして息を呑んだり、自然や社会の隠れた法則の発見に心躍らせたり、紛争国が矛を収めて握手するニュースに胸をなでおろしたりするのは勿論のこと、和やかな音楽の一節に心を奪われたり、白熱のスポーツ競技に興奮したり、お笑い芸人の冗談に腹をよじって笑ったり、はたまた山海の珍味を仲間と味わう幸せに、生きる喜びを味わったりするのも、すべて、私たちの「神の国」への憧れが、部分的に成就したことによるのである。

 では、そうした聖なる世界への憧れは、私たちのどこからやってくるのだろうか。私たちの頭(理性)からでも、私たちの胸(情緒)からでも、私たちの体(感性)からでも、私たちの動物的ないしは植物的な神経(本能)からでもないことは、確かである。これらは、その願いや憧れを、この世で成就したり表現したりするときの、ただの道具でしかないからだ。私たちの全ての憧れは、人間の理性と情緒と感性と本能のすべてを貫いて、これらを根底から突き動かしている、これら一切より無限に深いところに発し、これら一切より無限に高いところにまで及ぼうとする、私たち自身の生命より生まれてくるのだ。
 では、その生命は、どこから生まれてくるのか。それは、直近のところでは、この世の一切万物が生まれたとされる138億年前の天地創造の時からだとも言えるが、それは、本来、姿なき生命が、物質的な形態をとった時のこのことでしかない。私たちの姿なき生命は、元々、永遠の神の生命とともにあって、生まれることも死ぬこともない存在として、おのずからなる歓びを、無限の意識とともに湛えていたのだ。
 では、その生命が、私たち自身の内なる願いとして、すべての願いと憧れを根底から突き動かしているというのは、いったい何故なのか。それは、神の姿なき永遠の生命が、物質的形態をとってこの世に降り、順に、大自然の物理的生命進化、化学的生命進化、生理的生命進化、情動的生命進化、情緒的生命進化のプロセスなどを経た末に、その総決算として、理性的生命進化の受け皿として人間の肉体を準備したとき、神ご自身が、再び、私たち自身の姿なき魂となって、私たちの肉体に直々に降り立ったからだ。

 このようにして、私たちは、神の〈聖なる大自然〉の一環としての人間の、〈聖なる肉体〉の最奥の至聖所に、神の今一つの姿、神ご自身の〈永遠の生命〉として、つまりは神の超自然的な〈魂〉として、ひそかに息づいているのであるが、この霊的〈魂〉は、神ご自身の無限の叡智(真)と愛(善)と力(美)の一切をそのまま湛えた〈聖なるもの〉として、私たち自身のかつての原型である〈受精卵〉に降り立ったあと、自らの変容を通して、私たちのその後の成長を一貫して内側から支え、促し、導き続けて今日に到り、私たちに、更なる進化を迫って止まないのである。そのわけは、愛そのものである神ご自身が、自からの独り児である人類に、更なる進化を通して〈神人一体の栄光〉を輝かせ、一切万物の先頭に立って、愛に基づく麗しい霊的共同体を、この地上に結ばせたいと願っているからに、他ならない。
 したがって、私たちの魂の切なる願いも、内なる神ご自身の願いそのままに、自らを包んでいる物質的な本能と感性と情緒と理性の衣を、慎重に一枚一枚脱ぎ捨てながら、それらの制約から自らを一歩一歩解放して、さらなる高みに達することにあるのだと言ってよい。言い換えるなら、私たち人類の根源的な願いは、こぞって天使的存在へと進化を遂げて、地上に「神の国」を樹立し、そこで、神と自然と人間が不可分一体の中で真に調和する世界を、心から満喫することにあるのである。
 それなのに、私たち人類は、人類としての、民族としての、国家としての、個人としての、長く苦難に満ちたプロセスをたどるうちに、いつしか人類と民族と国家と個人に固有な、〈エゴイズム〉という名の〈無知なる想い〉を育ててしまい、その結果、魂自身の栄光への道を、我知らず妨げているのである。私たち人類が、自らの隠れた本質的な願いと憧れに従って、魂本来の輝きを発揮するためには、あらためて、内なる神の永遠の生命は即ち、自らの魂に一重に帰依して、その表面に付着した蜃気楼のようにはかない諸々の利己心を、日々の瞑想と祈りと精進によって、ひたすら浄化していくしかない・・・。

以上が、私の専攻するインドの、古代以来、現代に到るまで連綿と続く〈ヴェーダーンタ哲学〉の、神の生命と人類の願いをめぐる理論の概要であるが、これは、昨年暮れ以来、私が教会のミサに出席することを通して、イエス様御自身の教えの本髄として感じ取ったことと、見方を変えれば、本質的には、そのまま重なり、そのまま通じるようにも思われて、4月に受洗したことの深い意義に、ますます大きな喜びと感謝を、あらためて感じている次第である。

【 お知らせ 】


「初金家族の会」からのお知らせ

 9月早々に、関西には台風、北海道には大地震と、自然災害が続いています。初金ミサの説教で、豊島神父さまは次のように話されました。
 「今日の福音で、葡萄酒と革袋のたとえは、自然の法則の存在を示唆しています。今月早々の台風、地震による災害も自然の法則によるもので、被害を想定外と分析することは、人智の限界を示しています。敬意の念をもって、自然、地球の声を聴き、受け入れ、共生を考えるべきです。地震、噴火が身近な伊豆の島々の人々は、そのような知恵を持っていました。日々、神様より与えられた環境を受け入れ、ゆだね、しなやかに生きていく。私たちの住む地球も生きているのです。神様の摂理に合わせ、その恵みと計らいの上に生きている私たちなのです。神様より与えられたいい世界なのだから、どのように生きていけば良いのかを課題として、お祈りをしたいと思います」

 初金家族の会では、尾崎ひろみさんより、サンチャゴ巡礼の話がありました。フランスのコンクからモアサックまで200km強の距離を十日かけて巡礼した状況です。野の花と風景、ひなびた宿での出会いと交流、特色のある記憶に残る食事、点在する歴史を語る小さな教会などなど、味わい深いものを紹介されました。長い巡礼の道を一歩一歩、ひたすら歩くことが神に繋がっていくとの実感を得たとのことで、他では得られない感慨深いとのことでした。
 最近の巡礼は、アジア系、イスラム系の人々が多くなり、日本人は少ないそうです。人々の出所もいろいろで、習慣所作も異なるものが多い。この多様性を受け入れ合うのも大切と感じる一方、なじめないものもあったそうです。ゴミを拾いながら巡礼する人もいて、皆がこの巡礼の道の環境を大切にする心に感銘したとお話しくださいました。尾崎さんの巡礼の状況を肌で感じ、分かち合うことができました。また、活発な質疑応答も続き、盛況となりました。

 10月は5日の金曜日、ミサの後、午前11時頃から1時間ほど、信徒会館で初金家族の会を開催予定です。今回は、「フランシスコ教皇様のことばを皆で読みましょう」とのテーマで皆様に参加していただき、皆で話し合い、分かち合うことを企画しています。皆様多数の参加をお願いします。
 「初金家族の会」は、初金ミサの後、貴重な体験を披露し、分かち合い、信仰を語り合う、信仰家族の絆を深め合う楽しい会です。皆様どうぞお気軽にお立ち寄り下さい。