2016年6月号 No.514

発行 : 2016年6月18日
【 巻頭言:主任司祭 豊島 治 】


つながります

主任司祭 豊島 治

 前号でもお伝えしましたが、私はカリタスジャパンの担当をしています。いまは全国の担当者の会議を運営する係をしていますが、前は自死のことについての部会にいました。幸田司教さまたちと一緒に執筆して小冊子をだしています。

 またその関係で、わたしはたまに福島県南相馬市の原町というところにも出かけていきます。CTVCカトリック東京ボランティアセンターが運営するボランティアベースがあるからです。6月1日でカリタス原町ベースは開設4周年になります。福島第一原発から25キロというところにあって、最初は屋内退避、それから緊急時避難準備区域というところに指定されていて、ボランティアベースを開くまでに震災から一年かかりました。20キロ圏内はずっと今に至るまで人が住めないままでした。今ようやく帰還がゆるされようとしているこの地域のそばのベースですので、家の片付けなどのボランティアのニーズがまだまだたくさんあります。
 原町教会はもともと信徒数の少ない教会でしたが、原発事故により、多くの人がこの地域を去ることになり、さらに信徒の数が減ってしまい、日曜日のミサに来る人は10人以下になっていました。司祭は何年も前から住んでいませんでした。でも今、司祭が定住していますし、そこにベースができ、四つぐらいの修道会のシスターも越してきて、毎朝、ミサが祝われています。朝のミサが教会であって、ベースでスタッフも含めて一緒に朝ごはんを食べ、その日の活動に出かけて行く。もともと過疎高齢化の進んだ地域でした。原発事故によってそれは更に進んでいます。警戒区域の指定が解除されてもどれだけの人が帰れるか分かりません。そういうお年寄りに、あなたは一人じゃないよ、と伝えるために出かけて行くのです。

 ミサからくるこうした力は普遍です。ミサに集まり、その中で神とのつながり、聖体をうけキリストとのつながり、そしてそこから出かけて行く。

 多摩教会において通常のミサでは多摩地区への宣教のきっかけとなったメイラン神父様からうけついだカリスを用いています。歩いて神奈川、多摩、埼玉に福音を伝えた宣教師メイラン神父の熱意が、多摩教会のミサからも発せられます。
 また、今後多くなることが予想される病者への聖体をお運びすることに関してですが、先日布告された規定に適合するため、希望の方は主任司祭への連絡をお願いすることにしました。その際、内容を説明し、専用の容器についての説明をいたします。

 どんなときも、キリストはミサという食事をわたしたちに残してくれました。神とのつながりを味わい、イエスとのつながりを深く感じ、人とのつながりを忘れない、すべての気持ちをこめて。

【 連載コラム 】


「荒野のオアシス教会を目指して」

一瞬の勇気で、一生の家族!
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第66回
ピクシス( PYXIS )で思うこと

諏訪・永山・聖ヶ丘・連光寺地区 マリア・クララ

 「ピクシス」をご存じですか?
 ピクシスは御聖体を入れるふた付きの容器のことです。信徒の皆さまは「もちろん、ご存じ!!」だと思いますが、転会した方や新受洗者の皆さまは御存じないのではと思います。

 私は5年前に転会させていただきました。その前、17年間お世話になったプロテスタントの教会では、月に1回、第一週目に聖餐式がありました。聖餐式では、もちろん聖別されたものですが、ご近所のパン屋さんの食パンを一口大にカットしてあるものとブドウジュースを頂いていました。転会を許された多摩教会で初めてホスチアに出会い、そしてピクシスという言葉も最近になって知りました。
 それは今年の春、主人が思いがけず入院・手術・再入院となり、神父さまとお話しした時に、ホスチアを頂いて届ける方法があることを教えていただき、病院に届けることができたからです。神父様からピクシスをお借りしましたが、「大切な物なので紐付きの専用ケースに入れ、男性の場合は首から下げ胸のポケットに入れてお届けすること、女性の方も特別大切に扱ってください」とお話しがありました。病院で御聖体を頂きましたが、神様がすぐそばでお守りくださっているようで、病床であっても、「ここも教会と同じオアシス」・・・とホッと安心することができました。
 ピクシスについてインターネットで調べてみますと、教会によってピクシスの扱い方に違いがあるようです。豊島神父さまも「ルールがあります」とお話しされていますので、もしも必要な時には、神父様にご相談されるとよろしいかと思います。

 現在、ピクシスの活用は、病床訪問時が中心かと思いますが、これから高齢化社会の問題が出てきます。病気でなくても、身体上の不都合等で教会に伺えなくなってきた信徒の方にも主任神父さまが都合で赴くことができない場合、ピクシスを使って御聖体をお届けすることがある、と教えていただきました。多摩教会は優しい時間と空気が流れていて、沢山の笑顔がある教会だと思います。
 何年経っても、何十年経っても、今と変わらず誰にでも優しい教会であるために、ピクシスが病床の方の希望の源として使用できたら・・・と願っています。

ピクシス

ピクシス
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【 特別寄稿 】


特別寄稿
メイラン神父様について

塚本 清

 豊島神父様が、メイラン神父様のカリスを使ってミサをささげていられるのを見ていると、神様の不思議な力を感じます。というのは、メイラン神父様は、八王子教会で43年間主任司祭の職につかれ、八王子教会に所属していた私の曽祖父、祖父、父や親戚なども大変お世話になったと聞いていたからです。そこで、メイラン神父様のことをご紹介しておきたいと思います。
 神父様は1866年(慶応2年)にフランスで生まれ、パリ外国宣教会の神学校を卒業されて1889年(明治22年)に司祭に叙階され、宣教のため日本に来られました。当時は船による旅で約4カ月かかったとのことで、宣教師として日本に行くということは、故郷や家族との生き別れを意味していました。また、この宣教会の慣例で出発の時の見送り人は一人もいなかったとのことです。日本に着いて日本語の勉強などをしてから、1893年(明治26年)に八王子に来られ、それ以前に八王子で宣教活動をしていたテストヴィド神父様(神山の復生病院の創設者)の後を継いだのでした。
 当時は教会の数も少なく、神父様の宣教活動は八王子だけでなく、五日市、青梅、奥多摩、入間(埼玉)、津久井(神奈川)、甲府(山梨)やその近隣の地域などにも及んだそうです。この時代の宣教は、すべて徒歩で行われました。宣教活動が広範囲にわたっていたため、神父様は信徒が信仰を維持できるように家庭での信仰生活に重点を置き、家族そろっての祈りの時間をとるように要請し、信徒は子どもばかりでなく大人も教理の勉強に努力をするようにしていきました。このほかにも八王子教会の本町幼稚園やカトリック府中墓地の設立などにもかかわったということです。
 そして1936年(昭和11年)に清瀬の「ベトレヘムの園」に移り、ここで1949年(昭和24年)に帰天されるまで過ごされたそうですが、戦争の影響があった時は、かなりつらい経験もされたとのことです。
 明治の時代になり、日本でキリスト教の宣教ができるようにはなっても、ヨーロッパからは遠い日本に来る宣教師は数少なかったことと思います。その時代に広大な地域を徒歩で宣教し、信仰の種をまいていった神父様方のことを思うと、その業績は私たちの想像を超えるものではないでしょうか。八王子を始め、多摩西部、埼玉県南部、神奈川県北部、山梨県などを宣教のために踏破し、まいていった信仰の種が今の私たちにつながっていると思います。

(参考文献)
・ 『キリストを背負って六十年 メイラン神父の伝道記録』(昭和62年 塚本昇次著)
・ 『八王子教会百年 1877年~1977年』(昭和52年 カトリック八王子教会百年記念誌編集委員会)

メイラン神父
メイラン神父

 
メイラン神父のカリス
メイラン神父のカリス

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【 お知らせ 】


「初金家族の会」からのお知らせ

 豊島神父様は3日、初金ミサの説教で、「見失った小羊は決して特別な羊ではありません、日常の私たちの立場と同じです。絶えず迷える一匹の小羊をさがし、助けてくださる主が側におられることを信じて生活しましょう」と私たちを励まされました。
 続いての初金家族の会は、神父様のお祈りからはじまり、竹内秀弥さんがシスター内海郁子さんを紹介され,シスターから聖堂のイコンについて詳しいお話しを伺いました。懇談はイコンから信仰の問題に発展し、シスターを囲んでの熱心な分かち合いが正午すぎまで開かれました。

 来月、7月1日の初金家族の会は、先に五島列島・長崎の巡礼を終えられた中嶋誠さんを中心に、五島・長崎での信仰生活などを話し合う予定です。
 様々な話題でお互いに信仰の絆を深める初金家族の会です。どなたでもどうぞお気軽にご参加ください。

Sr.内海制作のイコン
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