連載コラム:「気づかないとき、神様は常に私のそばにおられた」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第40回
「気づかないとき、神様は常に私のそばにおられた」

南大沢地区 ウェケ・マイナ・アーネスト

 皆さん、こんにちは。多摩カトリックニューズに書くのは初めてなので、この場を借りて自己紹介と感謝するエピソードを短くご紹介したいと思います。
 私は1967年にケニアの首都ナイロビで生まれました。両親は熱心なカトリック信者で、私は生まれてから1カ月も経たないうちに幼児洗礼を受けました。しかし、それは面白い方法でした。生まれた時の名前をそのまま洗礼名にするというやり方でした。今思えば名前変更の登録の手間を省こうという両親の狙いがあったのかもしれません。
 小学生の頃は、毎週日曜日に母親と兄弟たちで教会に行きました。家から教会までは歩いて15分ほどでした。近所の子供たちは教会学校でシスターたちからカテキズムを学びました。ミサが終わると男の子たちはサッカーで遊びました。サッカーの他には音楽のバンドもありましたが、私は参加しませんでした。多摩教会のようにお菓子はもらえませんでしたが、小学校時代の教会は非常に楽しかったです。

 カトリック信者としてこれまでで一番嬉しかった思い出のひとつは、1980年にありました。教皇になって3年目のヨハネ・パウロ二世が私の故郷ナイロビに来られたときのことです。
 当時、中学1年生だった私に夢にも思わないことが起きました。教皇のミサに参加することができたのです。とはいえ、それはナイロビ中心部にある「ウフルパーク」という名前の大きな公園でのミサでした。恐らく10万人以上の信者がミサに与ったのではと思います。当時、大きな野外用モニターは普及しておらず、祭壇から遠く離れたところにいた私にはパパ様の顔をはっきり見ることはできませんでした。たまたま横に座っていた人が双眼鏡を持っていて、それを貸してくれたので、パパ様の顔が「手に触れるほどに」非常に真近に見えたことをはっきり覚えています。教皇の御ミサに与ったのはこの1回のみでしたが、ヨハネ・パウロ二世はその後も1985年と1993年にナイロビを訪問されました。

 恐らく、初めて信仰について深く考えさせられたのは、「オプス・デイ」と呼ばれるカトリック組織が運営しているカトリック高校に進学した時でした。その学校ではカトリック信者の生徒たちのために毎日、ミサがありました。そして学期の初めには2泊3日の黙想会がありました。告解も1週間で何回もできたので大変充実した信仰生活でした。
 ケニアの大学では、学生カトリックのサークルに入りました。そこで友達を集めて聖書朗読会をつくりました。毎週金曜日の午後8時に集まり、聖書を読むことにしました。朗読会を3年間行い、その中で何度も聖書に書かれている文章の美しさに感動しました。

 日本に来てから独身だった頃は都心の教会に通っていました。
 カトリック信者は少ないだろうといわれていたので、カトリックの友達(女性に!)に出会うことは諦めていました。しかし、そこで「普遍的な神様」が現れて、私の考えが間違っていることを示されました。そう、日本でカトリック信徒の女性(妻の暁子)と知り合ったのです。結婚式はカトリック目黒教会で行い、2人の娘に恵まれました。

 目黒教会から多摩教会に転入したのは2000年のことでした。それから14年間、教会学校をはじめ、いろいろなかたちで私たち家族は多摩カトリック教会の皆さんに大変お世話になっています。
 そして喜ばしいことは、主任司祭である晴佐久師の下で福音に目覚める新しいたくさんの仲間が増えていることです。そして、教会は楽しく賑やかになってきました。私にとって、多摩教会は心のオアシスであり、神様の恵みを共有する場所です。その仲間が増えてきたのは大変嬉しいことです。
 個人的な活動は何もしていませんが、これからも皆さんと一緒に神様に祈りを続けたいと思います。