洗礼の秘跡にあずかって(受洗者記念文集)

松原 清子(仮名)

 3月30日復活徹夜祭で、晴佐久神父様が私の額に勢いよくご聖水をかけてくださり、『あなたの息吹を受けて♪』 私は新しくなりました。

 幼稚園から大学まで、カトリックの学校に通いました。幼稚園でマリア様に出会い、お誕生日にさずかったおメダイを大切にしていました。子どもの頃は毎晩、神様とマリア様に今日一日あったことを報告し、皆が幸せであるようにお祈りをしていました。
 しかし、ある時期から、心がこわれるようなショックな出来事がいくつも重なり、いくら祈っても神様は私の声を聞いれてないのではないかと不信を抱き、祈ることができなくなり、神様から離れていました。今思い返すと、魂が神様につながっていない、暗闇のような時期でした。

 20代、ヨーロッパのカトリックの聖地や巡礼、黒マリアに興味を持ち、導かれるようにして、何度か旅をしました。サンチャゴ・デ・コンポステラへの道、ルルド、ファティマ、フランスのロマネスクの教会めぐり、アイルランドの修道院、大西洋の孤島スケリングなど。これらの旅を通し聖霊が働き、神様とのつながりが深いところで回復しました。その後、次第に自分の使命が明確になり、少しずつ自分の人生を取り戻していきました。
 そして、10年位前、東京カテドラル内のマリア像の前でひざまずくと、涙が止まらなくなりました。深い魂の底からの涙でした。その夜、東京の夜空に流れ星を見ました。マリア様にずっと見守られていたこと、それを受け取る時期が来たお印と理解し、マリア様のもとで心の告白をする時間を定期的に持つようになりました。
 2012年、旅行先のブルガリアのボヤナ教会で、ふいにキリストの愛に触れる体験がありました。無償の愛への鍵は、イエス・キリストにあると深いところでわかりました。
 同年6月、五島列島へ旅をし、多数の教会とルルドをめぐりました。井持浦教会のルルドで夜、マリア様へ祈っていると「さあ、次へ行きなさい」と押し出されたような不思議な感覚があり、シフトの時期を感じました。

 そして、10月28日、さまざまなめぐり合わせに導かれて多摩教会のミサにあずかりました。神父様を通して神様の言葉が直接私の魂に響き、その後も数日かけて愛と喜びが全身全霊に広がってきました。神様に愛されていることを初めて心と体と魂で感じました。この体験の意味を求めて、ミサと入門講座に通うようになりました。
 そして、12月24日聖誕のミサで、自分を空っぽにして、神様の大きな愛にすべてをゆだねることにしました。今までの数十年は、洗礼に向けての準備期間で、すべては神様のご計画だったと腑に落ちました。
 それから、洗礼までの3カ月、教会の皆さんとのつながりや世界に広がるコミュニティからの祈りを受け取り、カトリック=普遍という意味が少しわかってきました。

 洗礼名は、いつも寄り添い見守ってくださったマリア様と、心から敬愛するアッシジの聖フランシスコからあずかりました。
 折しも、新しい教皇様がフランシスコの名前をお選びになり、この偶然に歓喜し、神様の御心に添えますようにと、祈りました。

なぐさめられるよりなぐさめることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを
私が求めますように

 聖フランシスコの平和を求める祈りとともに、喜びと感謝のうちに、あたらしい一歩を歩きはじめます。