導かれて(受洗者記念文集)

谷合 伸子

 今、私の中で『無名兵士の祈り』の詩が浮かんできます。

 「 求めたものは一つとして与えられなかったが、
   願いは、すべて聞き届けられた。
   神の意に、沿わぬものであるにもかかわらず、
   心の中の言い表せない、祈りは、すべてかなえられた。
   私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福された 」

 これまで生きてくることに行き詰まり、人々の中で息苦しく、いつも寂しさを抱えていました。
 両親からは跡継ぎを言われ続け、姉夫婦ともその問題も含め、軋轢(あつれき)が生じ、私の心は八方ふさがりでした。結婚してからもこれは続き、やがて子どもたち3人と家を出、新しい生活を始めてからはもっと自分を萎縮させ、自分を捨てて過ごしました。
 「これを続けていたら、私は人間ではなくなる」、そんなところまで行き着いて、やっと私はそこをも離れる決心をしました。本当にボロボロになっていました。再出発をしたそのとき、長男が亡くなりました。長男を失い、出口のないトンネルの中を彷徨(さまよ)っているようでした。

 「生きていくのは、もういい」、そう漏らした私に、ある方が次のような手紙を下さいました。
 「その思いは大切にしてください。それは、心に十分な休息を今持たせてやること。心を休めることは、静かな心の状態を持つことです。静かな心は『聖なる心』と言われています。この気持ちに自分を持っていくことで、だんだんと外の世界に煩わされなくなります。そして、恐怖、不安の感情は常に幻想に基づいていることを忘れずにいてください」。
 初めてこのような内容を目にしたとき、こんなことが私にできるだろうかと絶望的ではありましたが、ここから私の自分探しの旅が始まったのだと思います。

 それからまた数年し、「『神と出会う』とはどういうことだろう?」「『神が私の親である』と実感するにはどうしたらいいのだろう?」と、強く願うようになりました。
 導かれて、この多摩教会に足を踏み入れたのです。
 「ここはあなたの家庭です。ここにいる人々はみんなあなたの家族です」、晴佐久神父様の最初のことばです。
 私はずっと自分の居場所を求めていました。教会に身を置いていると、はっきり、ここが私の居場所なのだと感ずることができました。そして、私の疑問には、福音を聴くことだと答えてくださいました。
 金曜日の夜、永山の駅から教会までの道を、いつも花々を楽しみながら、夏には日陰を求め、秋には爽やかな空気を吸い、寒さの冬も手袋とマフラーで足取りも軽く通いました。振り返ると教会に通い始めたとき、ちょうど膝の炎症で歩くことが困難だったため、この距離を通えるのだろうかと心配していたにもかかわらず、帰り道は思わずスキップして帰ったのだと話して笑われたことを思い出しました。
 この一年、体調と環境に煩わされることなく通うことができたのは、大きな恵みでした。

 この度、洗礼のお祝いを頂き、いかに周りの人々が私を支えていてくれたのかを知り、温かく深いものを感じ取り、しみじみと味わいました。
 入門係の皆様、代母のMさん、教会でまだまごついている私に寄り添ってくださった方々、ありがとうございました。私の人生は、本当に多くの人たちの私の魂に響く力に支えられていたのだと感謝するばかりです。
 晴佐久神父様は、一人ひとりに向き合って対話して下さいました。私という一人の人間に向き合って受け止めてくださいました。「あぁ、大変だったね」この言葉は、どんなに私の深いところまで届いて癒してくれる言葉だったことでしょう。私自身を大切にしてもらうという幸せな思いを実感して、嬉しい、満たされる体験をしました。
 入門講座の中では、ただ涙が溢れ胸がつまるときには、穏やかな、なんともいえない平安な心持ちがしました。このしみじみとした幸せ感を味わうために教会に通っていたのです。

 神様がすべてリセットして新たにしてくださったということを思い起こし、前のものに全身を向けつつ、新しく生き直す人生を始めたいと思います。