巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「はじめまして」

はじめまして

主任司祭 晴佐久 昌英

 はじめまして。
 多摩教会のみなさんに、そんな心躍るご挨拶をさせていただきます。
 すべてはこの「はじめまして」から始まることに、私はいつも感動しています。
 生まれたばかりの赤ちゃんを抱きしめて、「はじめまして」。
 かけがえのない親友になるとも知らずに、「はじめまして」。
 数年後に神のみ前で愛を誓い合う二人が、「はじめまして」。
 いつの日か神の国の完成の日に、天の父のみもとで共に感謝と賛美を捧げることになる信徒と司祭が、「はじめまして」。
 あらゆるすばらしい未来が、この「はじめまして」のうちに秘められています。すべての「はじめまして」は、神の結んだ神のわざだからです。

 神は、神の国の完成の日に向けて、今もいつも創造のわざを続けておられます。人間は、その創造のわざの大切な協力者として造られました。神はある特別な力を人間に与え、人間がそれを用いて創造のわざに参与するようにお定めになったのです。
 その特別な力とは、互いに愛し合う力です。
 私たちが愛し合い、赦し合い、祈り合い、助け合うとき、私たちは神の創造のわざに奉仕しているということです。神が私たちを出会わせるのは、ひたすらそれを願ってのことにほかなりません。
 だれかと出会い、「はじめまして」と挨拶するとき、それは単に人と人が初めて顔をあわせているだけのことではなく、その二人の出会いのうちに今まさに神の国が始まっているという、心躍る瞬間なのです。

 前任の高円寺教会でも、本当にすばらしい「はじめまして」が溢れていました。司祭、信徒、信徒の家族、求道者、様々な人同士の様々な出会いによって様々な「はじめまして」が生まれ、それはある人にとっては神との「はじめまして」ともなり、やがてその人が復活祭に洗礼を受けるなんてことも、たくさんあったのです。
 ある大学生は、たまたま高円寺教会の前を通りかかったとき、にぎやかな音が聞こえてきたのでなんだろうと立ち止まったら、入り口の売店にいた入門係に声をかけられて、ちょうどホールで開かれていた青年たちのライヴコンサートへ案内され、次々と「はじめまして」と紹介されてみんなと友達になり、その日は打ち上げにまで参加して神父から福音を語ってもらい、その後教会へ通い始めました。悩みを抱えて苦しんでいたその彼は少しずつ元気を取り戻し、入門講座にも出るようになり、今年の復活祭に洗礼を受けました。受洗を決心して司祭面接をしたとき、彼は言いました。「あの時声をかけてもらえなかったら、ぼくはどうなっていただろう」。
 私の在任中の六年間に、高円寺教会で洗礼を受けた人は、五百四十一人です。その全員と、私はある日出会ったのです。「はじめまして」、と。ある日偶然のように出会った人と「はじめまして」と挨拶するとき、思わず感動してしまう理由が分かっていただけるでしょうか。

 このたび、多摩教会に受け入れてくださり、本当に感謝しています。これからどんな「はじめまして」が待っているのか、わくわくしています。私はみなさんとの出会いを、神のはからいと信じています。みなさんも、一人の司祭との出会いを神のみこころと全面的に信頼して、共に創造のみわざに協力していきましょう。たくさんの「はじめまして」が溢れる、心躍る教会になりますように。