連載コラム「スローガンの実現に向かって」第102回
「S君の孤独死のこと」
S君は小生にとって、大学の新入生として昭和28年に出会って以来の親友でした。彼はフランス語、アラビア語など六つの言葉をマスターし、NHKの国際部で思う存分活躍し、中東問題の専門家として、ニュースの解説にも時折り顔を見せていました。退職後も同時通訳、翻訳家として充実した生活を続けていました。
そんな彼が、一昨年の復活祭に川崎のカトリック鷺沼教会で洗礼を受けました。古くからの信者であった奥様が、一昨年に重い病に罹ったこと、そして彼自身が心臓の疾患で苦しむようになったことが契機だったようでした。その奥様が昨年6月に亡くなり、鷺沼教会の葬儀に仲間と参列しました。子供もいなかったので、喪主席で一人ぽっちで座っているのが、淋しそうでした。
猛暑が続いていた先月の26日の夜、S君と偶々、同じマンションに住んでいる家内の友人から電話があり、彼が孤独死したことを知らされました。8月4日頃から新聞がポストにたまっているのに隣人が気づき、警察に連絡したが、警察も単独では中に入れないとのこと。彼が契約していた弁護士とやっと連絡が取れ、8月20日部屋に入り、死亡が確認されたそうです。社会人として立派に生き、何事にも几帳面だったS君が、こんな形で生涯を終えたことに、言いようのない淋しさと悔しさ、そして驚きを禁じ得ません。
遺体はすでに警察と弁護士との計らいで、荼毘に付されていたので、追悼ミサが8月31日に鷺沼教会で執り行われました。主任司祭の松尾神父様はそのミサの説教で、あの暑さの中で、何故Sさんに電話一本掛けること、はがき一枚を書くことを考えなかったかと悔やんでいることを、切々と話されました。それはまた参列している人々の胸にも響く、呼び掛けとも聞えました。
孤独死のケースは私たちの教会でも、すでに幾つか経験しています。これからますます一人暮らしが増えて行く中で、どう対応して行けば良いのか。これという特効薬はないでしょう。教会全体で、そして地区単位で取り組むことが必要でしょうが、何よりも自分で、身近な人々とのコミュニケーションを保つことが大切でしょう。高齢者としてお互いに連絡のネットワークを作っていくという自助努力が欠かせないと思います。
今年のシニアの集いために、総務の仕事を少し手伝わせてもらっていますが、集いに参加できない人のお名前を確認しながら、考えさせられました。未だ頭脳も明晰、声もしっかりしているのに、健康の問題で参加できない方々の顔が浮かんできます。
シニアの集いで楽しい一時を過ごすのも嬉しいけれど、このような境遇にある方々のために祈ることが、先ずは大切なことではないでしょうか。その祈りを皆で共有できれば、それなりの力になるのではと思っています。