巻頭言:主任司祭 豊島 治「来てしまうクリスマス」

来てしまうクリスマス

主任司祭 豊島 治

 急激な寒さへの移行で体調を崩されている方が多いようです。私も先日クリニックに行き、「お立場上、この時期に休めませんね。薬をフルセットでお渡ししましょう」と、処方箋をいただきました。フルセットの意味がわかりかねましたが、うがい手洗いの遂行は、繰り返し指示をうけました。こんな立場でお伝えするのも矛盾しますが、日頃の行動のなかに、このことを意識していきたいです。

 クリスマスは今年もやってくる。どこかのCMでのフレーズですが、聖書において最初のクリスマスは、この言葉をもってはじまります。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がうまれた。その方こそキリストである」

 目に見えるイエスという人の生涯に、神の宣言、「あなたは救われる」「あなたを愛する」が現れたことの出発点になります。そこで神がわたしたちの中に現れたというのは単なる過去の出来事ではない、神はいつもわたしたちと共にいることに他なりません。
 赤ちゃんとしてのイエスの誕生、そして、人と同じ生涯の始まりは、そのことをはっきり示しています。キリストの誕生において、神が私たちの中に来られたというメッセージを祝うのが12月25日の主旨です。

 ひとりの人間というものは、限界のある、弱くもろいものです。神はイエスという姿において、弱さ・力不足を時に感じる私たちの感性を知る方になった。私はイエスの生涯が独裁者のような権力をふりかざす人でなかったことを嬉しく思っています。独裁者は必ず弱さを覆い隠していることから始まる矛盾がやがて露見し、終わりに至ります。イエスはそうでなく、政治的には無力を貫き、貧しい・弱い立場になって神さまと人に対して誠実に生きて、そして倒れるといういう生涯を見せてくれたことが嬉しいのです。だから、2000年前の「生まれた」ということだけを祝うのでなく、今も神がともにおられるという信仰の祝いをするのです。信仰は、「昔はこうだった」「あの時はよかった」という過去形であってはならない、現在形である今を生きる力となっているのが信仰です。
 今もやまない対立の壁、憎しみと敵意からつくり出される壁が存在します。そのなかにキリストが共にいて、「そうだ、和解が必要だ」「結び直しをしよう」と現実に至るような希望を思い起こして祝う降誕節の願いにいたしましょう。

 12月25日というカレンダーは、忙しくてもそうでなくても規則的にやってきてしまいます。キリストが、救い主がこれらるのは、一方的にあちらの都合であり、私たちには制御できません。私たちは合わせるしかない。そんな潔さをもって25日からの降誕節を祝いましょう。