寄稿:「四旬節福島巡礼の旅」‐ 報告No.2

= 寄 稿 =
四旬節福島巡礼の旅‐報告No.2

中嶋 誠

 私は、昨年11月の「福島から語る@多摩東」以来、福島、とりわけ原発事故によって避難を余儀なくされた人々や風評被害に苦しむ方々に心を寄せたいとの思いが増していました。そんな折、第一原発入構の企画を知り、原発の必要悪と絶対悪論の中で、自分の立ち位置について頭の整理ができぬまま、参加の手を挙げました。

 原発入構日の早朝、ホテルの一室でのミサの中で、星野正道神父様は、巡礼の旅について、「慣れ親しんだものから離れたところに身を置き、自らと相対すること」と話されました。
 海に向かって祈る組と別れ、原発に向かうバスの車窓からは、時折廃虚化した無人の家々が眺められました。家のまわりを覆う若葉に、若葉は居ることができても帰還できぬ人々、とりわけ思い出をこの地に残して避難を余議なくされている中高生や青年の無念が重なりました。確かに除染は進んでいるようですが、時間の経過と共に痛みはより増し、複雑になっているのだと考えていました。
 第一原発から10キロ程離れた東京電力の旧エネルギー館で入構の事前説明を受け、東電のバスで国道6号線を北上。車窓からの景色は、いきなり地震で崩れたガソリンスタンドや放置されたスーパーマーケットらしき店に変わりました。そこは帰還困難地域でした。晴天、静寂の中でのこの景色は、目に見えぬ放射線被害の深刻さを感じさせます。
 厳重な入構チェックを受けた後、見学者全員が放射線量測定器着用を義務付けられ、見学によって浴びる放射線量は、最大10マイクロ・シーベルト、これは歯科でレントゲンを撮る時に浴びる量に匹敵するとの説明を受けました。その後の専用バスでの小一時間の見学では、防護服の着用も求められず、バスもごく普通のバスで、ここまで構内の除染は進んでいるのだと感じました。
 第一原発の敷地内は、汚染水・処理水タンクが文字通り林立、その間を縫うように災害に遭った設備を見て回ります。普通の作業着姿の作業員を多く見かけました。敷地内は汚染度の高い順に3段階のゾーンに区分されていますが、防護服なしで働ける汚染度の一番低いゾーンが殆どになったと聞き、除染作業の進捗を確信しました。原子力発電炉1号機、2号機の間を通った時に2、3度外気の時間当たりの放射線量を計り、報告がありましたが、いずれも200~300台のマイクロ・シーベルトでした。
 初めての入構で比較は難しいのですが、新聞、テレビの報道で見てきた無残な姿となった1号機、2号機、3号機では、この7年間で、がれき撤去や汚染拡散防止作業が相当進んだように見えました。世界的にも廃炉に至るまでの作業が確立していない現実の中で、第一原発関係者の不断なき努力を見た思いです。

 バスでの見学終了後、我々が浴びた放射線量が10マイクロ・シーベルトを超えていないかのチェックがまるで出国手続きのように行われ、場所を旧エネルギー館に移し、東電担当者との質疑応答がありました。
 汚染水の処理に関するものが多かったのですが、私にとっては、我々の中の一人が、「撤去や汚染拡散防止策に関し技術創出・革新のための基資料は何か」と質問したのに対し、「原爆実験のデータだ」との返答があったのが最も印象深く、またやり切れぬ思いもしました。
 第一原発では、3千人が廃炉作業に当たり、うち60パーセントの作業員が地元福島県の方だそうです。作業は、3号機の使用済み燃料取り出しが今秋開始の目途が立ったものの、1号機、2号機に関しては、今後2~3年を要する。3号機も含めた電炉底にあるデブリ(燃料が、冷却不足で溶け落ちたもの)は、その状況を把握するための調査が続いているようです。また一般的には、ロボットを使っての遠隔操作は、新たな技術の創出・革新から始まり、難航が予想されると言われています。頑張って欲しい。質疑応答終了後、私の関心先は、津波、水素爆発で傷ついた施設から、福島復興に希望を持ち、道筋のない廃炉作業に取り組む人々へと移っていました。
 困難な環境の中で、見通しの至難な作業に邁進する方々に神様の恵みが注がれますようにと祈られずにはいられません。