投稿記事

聖マキシミリアノ・M・コルベと多摩教会はつながっていた

神田 高志

  聖母の騎士文庫、小崎登明著「ながさきのコルベ神父」61〜71頁にかけてヤマキ先生のことが詳しく書かれております。コルベ神父の伝記、記録を読むとき、必ず登場して来るのが長崎在住のこのヤマキ牧師で、数ヶ国語を駆使して、翻訳・編集・通訳に協力したという記述があります。このヤマキ先生とは、私たちの小教区の創設に奔走した多摩教会のオリジナル・メンバーの一人であった八巻信生氏(故人)のお父様なのです。
 コルベ神父が、ゼノ修道士たちと共に昭和5年長崎に上陸し、聖母の騎士誌を出版することになったのですが、一番困られたのはその原稿を日本語に翻訳することでした。
 そこでメソジスト派教会牧師であり、中学校の先生であった八巻先生が紹介され、イタリア語の原稿を日本語に翻訳され、大変喜ばれたとその状況が書かれております。
 このことは「多摩教会ニューズ」No.204にも、その子息である八巻信生氏自身が書かれております。信生氏は「この牧師が私の父であり、その交流はコルベ師の死に至るまで続いたようである」と書いておられます。さらに、お母様についても次のように書いてあります。「自分が4・5才の頃、母が”ひょうそう”に罹り、最悪の場合指の切断もと宣告された。その治療には当時の金で10円(現在の50万円位か)はかかり、もちろんそんなお金はあろうはずもない。母も覚悟したようだ。まさにその折も折、航空便で小切手が届いた。10円だった。当時ポーランドに一時帰国されていたコルベ神父様からのものだった」
 その小切手には、「これは長崎時代の貴方の協力に対するマリア様からのプレゼントです。今必要とするものに使ってください」というメッセージが添えられていた。「おかげで指は切らずに済んだ、と母は死ぬまで繰り返しながら、涙ぐんでいた」
 これに関連して、小生(神田)がマンション時代の聖堂から帰宅する折、たまたま新大栗橋バス停で信生氏と一緒になることがあった。いつも苦虫をかみつぶしたような顔つきの彼が、にこにこしながら、「私の記憶では、母は教皇庁のコルベ神父列福調査のための証人として呼ばれたことがある」と語られた言葉を思い出します。
 お父様は、昭和54年85才で天に召されたと上記の小崎氏の本に書いてあります。同年10月の「多摩教会ニューズ」No.79に「八巻信生氏のご実父頴男氏が9月29日帰天されました」という訃報が書かれております。
 ついでながら、この79号の巻頭言に初代の主任司祭寺西神父様が、10月6日に帰天された晴佐久神父様のお父様への追悼詩「晴佐久さん、おぼえていますか」を書かれておられます。
 信生氏のことに戻りますが、「教会ニューズ」No.11号(1973年8月号)には「生と死、原爆より」という記事を書いておられます。その要旨は次の通りです。
 終戦直前、長崎に疎開していた自分たちのところへ、群馬へ再疎開するために、父が迎えに来た。その時自分の健康状態は良くなかったが、父の仕事の都合もあって長崎発東京行きの列車へ乗車。広島駅へ着いたのは昭和20年8月6日午前2時すぎだった。ここで列車は突然運転中止となってしまった。次の列車時間を調べに、何回か駅事務所へ行っていた父が急ぎ駆け戻って来た。「不定期の軍用列車が来る。駅にいる“民間人”の乗車を特に許可する」というのである。(中略)やがて列車はゆっくりと広島駅を離れた。駅の時計は6日の午前6時を指していた。それから2時間後、原爆は一瞬にして広島20数万人の命を奪ったのである。
 さらにその3日後、悪魔は再び、あの長崎に襲いかかった。伯父一家は伯父と長男を残して犠牲となった。祖母・伯母、そして一緒に握り飯を作りながら笑い興じた従姉妹たちも死んだ。
 「悲しい時、苦しい時、つらい時、何かお願いする時、マリア様にお祈りしなさい」。公教要理でシスターの云われた言葉だった。子供心にひたすら信じ、長崎脱出を願い続けた少年の祈りはきき届けられ、生の影を与えられた。それが初めての神との出合いであったことを、40才を過ぎた今でも、愚かかもしれないがそう信じている。
 また、ニューズNo.199(90年年3月号)の巻頭言に信生氏は、「その時以来、何か困った時、お願いしたい時には必ず、天使祝詞を唱え、マリア様に取りつぎを祈るようになった」と書いておられます。
 以上、小崎登明著「ながさきのコルベ神父」と「教会ニューズ」の八巻信生氏の文章から聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父が何故、私たちの教会の守護の聖人であるかをご理解していただく契機になればと思い、この文章をしたためました。
 なおご参考までに、八巻信生氏の奥様・お嬢様などのお家族は現在も多摩教の信徒でおられます。