連載コラム

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第19回

≪私の人生における、たびたびのオアシス≫

海野 滋子

  10才の時、父の急死、母の病気で、私たち兄弟姉妹、4人はそれぞれ親戚にあずけられ、みじめな生活を余儀なくされたのである。しかし、神は見捨てられず、熱心な カトリック信者の伯母のお陰で私は受洗、関口教会に通った。指導司祭はパリから帰られたばかりの大越神父様。満開の桜の花散る教会の庭で「どう、元 気?」と声をかけてくださるそのお姿は、当時不遇であった私の何よりのオアシス。それも甘く美味かった。
 太平洋戦争、それは意に反するものであったが、如何ともすることは出来ず、結婚間もなく夫は、「兵役のがれのため」南方ジヤワヘ転任し、私を置いて行ってしまった。
 物資不足のなか、姑との我慢、我慢の慣れぬ生活。そのなかを無理して日曜日のミサにはいった。唯一のオアシスであった。それは元気を与えてくれた。
 敗戦後5年間、夫は抑留生活にも耐え帰還。…神に感謝。留守中の家は2度戦災に遭い、食べるに苦労する有様であったが、小さなバラックを建て、戦後の生活が始まった。有難いことに、次次と子供に恵まれた。
 小さいのをおんぶし、1人の手を引き、5才のお姉ちゃんは前を歩かせて、平河町の家から麹町教会に通った。ホイベル神父様の時代で、3人とも洗礼は受けている。小さいの3人連れていますと、1人は必ず泣きだし、困りますと神父様にと申しあげると、「子供は泣くもの。少しも気になりません」と言われた。 そのお言葉は有難く、嬉しかった。人生で一番ほっとしたオアシスであった。身も心も安堵することが出来た。
 それから20年、姑をホイベル神父様のお陰で、天国に見送ることが出来た。これからは私たち夫婦の世界と喜んだ矢先、夫は「胃癌」を病み、最後のご聖体を涙と共に寺西神父様から受けて、帰らぬ人となってしまった。念願の新築の家も、広い庭も 楽しむことなく…。私一人になってしまった。
  3人の子供は、独立精神旺盛にてそれぞれ恋愛結婚をし、家を建て、別居していった。「お母様はどうなさる?」と心配しながらも…。 私の心は決まっていた。私も独立すると!将来の生活がすばらしいオアシスのほとりでありますようにと願いつつ。
 幸い、気に入ったケアー・マンションに入居出来た。多摩教会に近いことが何より嬉しく、毎日曜日通った。当時はまだマンションの一室でミサが行われており、早く聖堂を建てるべく、皆努力しているころであった。土地が決まり、仮聖堂でミサがあげられた時は嬉しかった。それからの神父様初め、教会委員の方の努力は如何ばかりだったでしょうか。
 次々と熱心な神父に恵まれ、今度は晴佐久神父という方が見えると寺西神父様に申しあげたところ、「星の王子さま」のような方だよと言われ、私の期待するところは大きかった。次々と計画をたてられ、実行されている。著作本もC・Dも多く作られた。眼・耳・足の不自由な私にとって何よりのオアシスである。
 整備された聖堂を見上げ、永年付き合った友人に見守られ、92歳の私は神の許に召されるその日を待つ。
 「生命ある限り喜びと慈しみはいつも我を追う。主の家に帰り永遠にそこに滞るであろう」(詩篇23)