御心を信じて生きる(受洗者記念文集)

越川 麗花(仮名)

 洗礼を授けていただき、ようやく私もクリスチャンの仲間入りができたことを大変幸せに思います。

 20歳の頃、神様を求めカトリックの教会に通い、洗礼を受けるために勉強をしていた私でしたが、復活祭前になり一人で信仰をしていく自信がなくなり、洗礼を受けることを断ってしまったということがありました。その頃は、ミサに与っていても自分の罪の大きさばかりを感じ、神様が私を愛してくださっているということは全く感じられずにいました。自分とは何なのか、何のために生きているのか、どう生きればよいのか、自分の存在価値は……光の見えないトンネルの中にいるようでした。

 そんな私に、転機が訪れたのは、25歳の時でした。何でもない晴れた冬の日に、「今までも大丈夫だったし、これからもずっと大丈夫」という強いメッセージのようなものを感じました。私は、その日を境に神様に生きる希望のスイッチを押してもらったようでした。それまで暗闇のように思っていた日々も、神様の存在を全く感じられないような時も、神様はずっと私を愛してくれ、ずっと見守ってくれていたということに深く感動し、純粋に生きている喜びを感じられるようになりました。何の価値もないように思っていた自分を、神様はずっとずっと愛してくださっていたのだということは、私にとって大きな生きる自信となり、生きる意味を見出すきっかけとなりました。

 その後、教会とは関係ないところで出会った夫は、カトリック信者でした。結婚してからの15年は、8回の引っ越しで、生活に慣れることや子育てに追われ、あっという間に過ぎていきました。そして、昨年の春、夫の仕事の関係で、多摩に引っ越してきました。生活が落ち着いてきた秋頃、美しい景色に度々神様の愛を感じました。今、ここに自分がいることが、完全なる神の導きで、御心そのものであるという感覚があふれてきて、これからの人生を神様に全部委ね生きたいという気持ちが強く湧き出てきました。

 そして、迎えたクリスマス。夫の両親と家族4人で多摩教会のミサに与りました。久しぶりに与るミサに懐かしさと温かさを感じ、愛のあふれる晴佐久神父様のお説教に家族4人が、また来週もミサに与りたいと自然に思いました。今年の1月の半ばより入門講座に出るようになり、洗礼を受けたいという気持ちも芽生えてきました。そこには、自分の意志だけではない、大いなる力が働いていたように思います。

 子どもたちも、日曜学校で、改めてイエス様のことを知るようになり、それぞれに神様の愛を感じ、多くのことを学んでいきました。私も子どもたちも自然にイエス様を信じて生きていきたいと、それぞれに思うようになりました。

 そして、迎えた洗礼式、額に沢山の水を受け、生まれ変わったような清々しい気持ちになりました。ようやく私も神様を信じるものと受け入れられたのだと、本当に嬉しい気持ちでした。これからが、信仰生活のスタートです。いつも、どんな時も神様の愛を信じ、喜び、祈り、感謝して、これからの人生を生きていきたいと思います。

 最後に、力強い福音で私たちを洗礼に導いてくださった晴佐久神父様、洗礼を受けるにあたって優しく背中を押してくれた代母のKさん、信仰をともに深めていける家族、いつも私たち家族のために祈ってくれていた両親、私たちを温かく迎えてくださった多摩教会の皆様、本当にありがとうございました。

 そして、26人、一緒に受洗した良い仲間を与えてくださった神様に、心から感謝します。