連載コラム:「神様の御心はここに」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第54回
神様の御心はここに

諏訪・永山地区 秋吉 めぐみ

 「どうして転会したの?」と聞かれる。昨年、主人がカトリックで洗礼を受けることになり、長い間の私の願いが叶うことになった。嬉しくて嬉しくて、二人並んで神様の御前に立つという夢を実現するには、私が転会するしかない、と思ったのは確かである。が、実はそれだけではなかった。ひと言、私の方もカトリックの「神様のやさしさ」に触れ、魅かれてしまったからだ。

 入門講座、ミサ後の私の心は、プロテスタントの聖書研究会、礼拝後のそれとは全く違うものだった。心軽く、自由な、ウキウキした、手を大きく広げて空を見上げて叫びたいような気持ち。一方、自らを戒め、律し、御言葉に従って過ごさねば、と、眉間にしわが寄るような気持ち。同じ御言葉をいただいているのに、この違いはなんなの?
 毎週、放蕩娘のようになって礼拝にでていた私は、神様からの御言葉によって「しっかりしろ! 来週は誇れる自分になって戻ってこい!」と言われ、「ごめんなさい、今週は頑張ります」と悔い改めの涙で一週間を始めるものの、良い娘にはなれず、またすごすごと礼拝へと戻っていくその繰り返し。その頃は、キリスト教はそういうものだと思っていた。愛のむち。毎週気持は新たにされるけれども、そこに喜びはなかった気がする。一方ミサの中の神様は、御言葉と一緒に聖霊を送ってくださり、「一緒にいるからだいじょうぶだよ。一緒に歩んでいこうね」と背中を撫でてくださる。そこには温かな喜びの涙があり、素直に御言葉に従いたくなる。毎週抱きしめていただくのだからミサが待ち遠しい。礼拝におられる神様、ミサにおられる神様、どちらも同じ神様だ。神様は愛の方。神様は私たち子どもの笑顔が嬉しい。だったら、神様の御心はどっちに?

 カトリック信者となった幸せな私だが、今の自分を生み、育ててくれたプロテスタントの教会には感謝している。あちらの教会員のことも大好きで、「実家の家族」と呼んでいる。神様の御心ある教会になりますようにといつも祈っている。
 私の一日は、晴佐久神父様の二つの日めくりカレンダーをめくることから始まる。まず声を出してゆっくり読む。しばし絵を眺める。絵の中に「私」を置く。ほら、今日も聖霊「✽.。.:*・゚」に包まれ守られている私。神様に愛されている私。だから「今日もきっといい日」。