「多摩教会に来てみませんか?」

香山 奈々子(仮名)

 「奈々子先輩、元気がないようで心配です」華ちゃん(仮名)が声を掛けてくれたのは、数年振りに参加したゼミ会の帰り道でした。
 カトリック系の大学で、シスターのゼミに属していた私は、「神様が与えてくださった試練ですから、喜んで受け入れます」というシスターの言葉にあこがれを抱きつつも、私がそのような信仰を持つ自信などなく、苦しいときだけ神様を思い出して「助けて下さい!」とお願いしていました。
 「多摩教会に来てみませんか?うちの神父様のお話おもしろくて、きっと元気をもらえますよ」という華ちゃんの言葉をきっかけに、今までずっと気になりながら、あれこれ理由をつけて敬遠してきたけれど、キリスト教を知らないまま人生を終えたらきっと後悔すると考え、教会に通ってみることにしました。

 そして、初めて多摩教会に伺ったのが聖母の被昇天の御ミサでした。(その後のパーティーにもしっかり参加)
 神父さまが力強く宣言して下さる福音を毎週聴き、神様の愛の深さを知るたびに、新たな感動と感謝の思いがわいてきました。これまで、自分の意志や努力で生きてきたと思い込んでいましたが、神様に導かれ、豊かなお恵みと慈しみの中に生かされていたことに気付かされたのです。
 このような中で、ぜひ洗礼を授けていただきたいという思いが強くなりました。
 この思いに至るまでに長い年月がかかりましたが、これも神様のお計らいだったのだと思います。神様に感謝。

 大学の修道院創立者の洗礼名をいただき、代親になってくださったシスターから贈られたベールを着け、ゼミの仲間たちに見守られながらの洗礼式・・・、この幸せな日は一生忘れ得ぬものとなるでしょう。
 感謝の気持ちを忘れず、これからさらに信仰を深めていきたいと思っています。

 受洗に至るまで入門係の皆さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。 
 最後に・・・、私に「キリストの香り」を運んでくれた華ちゃん、あなたのあの時の言葉で新たな人生を歩み始めることができました。
 本当にありがとう!!

神様に呼ばれて

田島 優作(仮名)

 小学生の頃から原稿用紙に字などを書いたことが全くないので、うまく書けるかどうかわからないのですが頑張って書きます。

 4月7日、自分は洗礼を受けて神様の子にしてもらえたのを本当に嬉しく思います。まだ本当に神様の子になれたのかな?なんて考えてしまって信じられません。

 自分は、今まで、めちゃくちゃな人生をおくっていました。
 不安だらけで自分のことも全く信じてなく、人のことも全く信じてなく、神様のことなど頭には全くなく、人を悲しませたり傷つけたりを繰り返し繰り返し、していました。
 自分のことなんて、もうどうでもいいやって毎日思い、やけくそに今まで生き、そんな気分でいるのが心の底ではイヤだったのかもしれなく酒を飲んでごまかし、薬にまでも手を出して、気付いたら薬から離れられなくなっていました。自分の中で薬が生活の中で一番になり、自分のことを心配してくれる人や大事な友達も失い、一人になってしまいました。

 ある日、薬がきいている状態で何日も何日も寝てないときに車で薬を買いに行く途中で事故を起こしてしまい、運転していた仲間が大けがをしてしまいました。
 自分は、そのときやっと気付きました。このままじゃ絶対にダメになるっ!!もう止めなきゃ!!
 何だかわからないのですがその時に思い出したのが、自分が小学生の頃に無理やり母親に連れて行かされたサレジオの教会や日曜学校でした。子供だったので日曜は遊びたくて遊びたくて、いやいや日曜学校や教会に行っていたのですが、日曜学校の先生のことや、日曜学校で歌った神様の歌や、神父様のことを思い出して、神様を信じる気持ちっていいことだったんだなって思い、何十年ぶりに母親に会いに行って、母親に「教会オレも連れて行ってよ!!」って頼みました。母親はすごく喜んでくれて、母親の周りの人も全力で自分の教会のことで動いてくれました。

 去年の1月頃から教会に行き、仕事が忙しかったりして信者になるための勉強会にも出られず、信者になることを諦めていた頃に、シスターから多摩教会の晴佐久神父様のことを聞き、「神様があなたの事をここに呼んだのですよ」と言われ、自分も神様の子にさせてもらい、本当に嬉しく思っています。

 これからは、神様の子になったのだから、自分を信じて人も信じて、いつも自分の中にいてくれる神様を信じて生きて行きたいと思うようになっています。すぐには自分は変われないけど、できれば人に優しい気持ちを持てたりして生きたいと今は思います。
 神様のことを思い出せたことで母親とも何十年ぶりに会い、教会に来ていろいろないい人に会い、優しい気持ちをもらいました。
 神様のことを自分に思い出させてくれた神様に感謝します。
 「ありがとうございます」

私は幸せです

神谷 良美(仮名)

 今までの私は真っ暗なトンネルの中にいるようでした。
 そんな私を見かねた妹が教会に行くことを勧めてくれました。妹は高円寺教会で晴佐久神父様から神の福音を聞き、心に光が灯ったと言うのです。姉も同じように言って私を誘いましたが、私はまったく信じられませんでした。
 長い間、悩み苦しみ人を憎み、私は自分でも嫌になるような人間でした。夜、床に入るとこのまま目が覚めなければよいのに、といつも思っていました。
 姉も妹も何度も勧めます。晴佐久神父様は今は多摩教会にいらっしゃるからと、彼女たちは多摩教会の住所や電話を調べて、私を引っ張るようにして連れてきてくれました。あまりに勧めるので「一回ぐらいは行ってもいい」と応じたのです。美しい川沿いをしばらく歩き、ふと見ると「カトリック多摩教会」の文字が目にうつりました。そして優しいまなざしのマリア様の像の隣の階段を上り、御聖堂の中に入りました。初めての体験です。神秘的な空間でした。それでも私はまだ神の存在を疑っていました。

 ミサが始まり、晴佐久神父様が静かに登場なさいました。聖歌が流れ、聖句を聞き、何かが少しずつ変わってきました。その場に集う人々の微笑みをたたえたお顔が何よりも印象的でした。救われるとはこういうことかもしれないと感じられ、また来たいと思いました。
 ミサ後、神父様とお話しする機会を得られましたが、何と申し上げたか覚えていません。ただ、いただいたお言葉だけは鮮明に記憶に残っています。「あなたは何もしなくてもよい」とおっしゃってくださいました。このひと言は私にとって忘れることのできないものです。姉や妹の話をもっと早く信じていればよかった、もっと早く神を知りたかったと感じた瞬間でした。

 その後は何のためらいもありませんでした。洗礼を授けていただきたいという気持ちでいっぱいになりました。実際、洗礼志願書をいの一番に提出したのは私だったそうです。
 この世のことなどちっぽけなものにすぎない、自分は今まで何をしていたのか、と過去の自らを恥ずかしく思えるようになりました。私の気持ちをこのように変えてくださった神様に、今は本当に感謝しています。

 私は入門講座を受け始めて、まだ半年です。教会のことも、聖書も、ほとんど何もわかりません。それでも、これから信仰を深め教会のために、そして人々のために貢献していくつもりです。
 今の私には怖いものはありません。教会という、鍵のかかっていない安らぎにあふれた家に帰ることが、いつでも可能だからです。「私は幸せです!」と大声で皆に伝えたいぐらいです。
 本当にありがとうございました。
 神父様、どうぞ私がこの先も迷うことがないよう、再び暗闇に入りこんでしまうことがないよう、お導きください。

洗礼をうけて

浅田 千恵子(仮名)

 「お母さん、私も洗礼を受けました。」と私は母に報告しました。母は18年前に寂しさの中で天に召されました。
 私の夫の転勤で5人家族だった私たちは、母をキリスト教系のホームにお願いしてチェコスロバキアへ赴任しました。母はプライドが高くホームの誰とも馴染めなかったようです。
 その2年後、叔父から、母が誤嚥(ごえん)のため救急病院に運ばれたと電話がありました。私は取る物も取りあえず、帰国しました。担当医から80%は脳死状態なので、明日かもしれないし、3年後かもしれないと説明がありました。
 母は3週間後に亡くなりました。私はホームの母の部屋に寝泊まりしながら病院に通っていたのですが、その時ホームの方から母がクリスチャンであることを初めて聞きました。寂しかったのでしょう。私も二人の子供が海外赴任になり、その寂しさが理解できます。

 母の死後、私も教会へ行ってみようと思い続けていましたが、転機が訪れたのは2010年の鈴木秀子シスターの本との出会いでした。
 シスターの教えに救われ、講話会に参加するようになり、Mさんと出会い、多摩教会、晴佐久神父様のもとに導かれました。振り返れば、教会までの道のりは長かったようですが、最短距離で、神のもとに導いていただけたと思っています。シスターの教えは助走であり、神父様のご指導で離陸を可能にしていただきました。Mさんとの出会いに感謝しております。

 間もなく洗礼志願書が配られましたがとても不安でした。未熟な私ですが、大いなるものに背中を押されているように感じ、受洗を決めました。洗礼を受けた夜、しみじみと幸福感を味わいました。
 そして、1週間後の今は、私を教会に向かわせてくれたのは、私の母でもあったことに気が付きました。「お母さん、本当に寂しい思いをさせてごめんなさい。私もお母さんと同じ道を歩き始めました」。その時、そばにいた娘がポツンと言いました。「お母さんは、おばあちゃんと同じ方向にいくのね。私もそうなるのかしら?」それから、にっこり微笑んで「洗礼を受けることができてよかったわね」と言ってくれました。その祝福の言葉に私は娘の優しさを感じました。

 これからも、多摩教会の皆様と共に学んでいきたいのですが、残念ながら、私は近いうちに単身赴任中である夫の居住地福岡に引っ越します。教会の皆様との絆は生涯大切にしていきたいと思っています。
 晴佐久神父様やその他の多くの皆様に心より感謝しております。
 天のお父様、私はあなたの道を歩んでいくように努力してまいります。

愛と感謝にて。

洗礼のあと

 さわやかな朝を迎えました。そして、受洗後の初めてのミサヘ。
 教会へ行く途中は桜が満開。反対側には真っ白な花や黄色の花がたくさん咲いていました。とてもきれいでした。いつもと同じ花のはずが、見たことのない美しさ。これは本当に晴佐久神父様のおっしゃっていた天国へのウェイティングルームに入ったのかも・・忘れられないステキな日になりました。
 入門講座の終わりに神父様がおっしゃっていたことを思い出しました。「洗礼後には何かが変わります。すばらしいことがたくさん待っています」。何気なく聞いていて、「そんなに変わる!?」と思っていましたが、不思議なくらい心が穏やかになっていました。
 ずっと前にカトリックに出会いました。「いつか洗礼を受けられたらよいなあ」と思い続けていました。昨年3月、いろいろな障害が消えカトリック多摩教会へ。ようやく今年の復活前夜祭、神父様にお水をかけていただきました。ミサの中で洗礼名が聞こえたときは、これで本当に神様に通じたと・・・とても感動しました。
 晴佐久神父様には心に残る言葉をたくさんいただきました。入門係の方々や一緒に勉強した方々にはたくさんお世話になりました。皆様に心より感謝申し上げます。
 そして、カトリック多摩教会の皆様、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

ここから始まる

宮本 欄(仮名)

 洗礼を受け、今、とても清々しい気持ちです。洗礼後、何かが変わりました。復活祭と共に、本当に私自身も新たに生まれた気分です。
 不思議と洗礼後、私は自分でも変わったように思えます。洗礼前は、神様に対しての信頼が揺らぐ時期が度々でしたが、今はもう、神様に身を委ねて安心して前に進んでいる気がするのです。
 私の信仰生活は始まったばかりで、まだ生まれたばかりです。ここからが始まりであり、これからを歩んでいくに従い、イエス様の教えを日々噛みしめていこうと思います。これから、イエス様が私たちに伝えようとしてくださったことを、より知りたいです。
 母の受洗への希望、私の受洗への希望・・・。お互い自分たちの意思で受洗を希望し、今回偶然にも母娘、一緒に受洗することができました。
 しかし、これは、すべてが神様のお導きだと思っています。母と共に受洗できたこと、同時に新しく生まれたことに対し、今とても幸せを感じています。
 常に神様が手を差し伸べていてくださることを忘れずに、これから歩んでいきたいと思っています。

2012.4.7 洗礼をうけて

小島 美栄(仮名)

 厳かな洗礼式は、ろうそくの火の灯と、晴佐久神父よりお水をかけていただいた時の緊張が、今でも余韻として残っています。
 私は子どものころに教会の日曜学校に行っていましたが、その後はクリスマスの時に教会に行く程度でした。母や妹は熱心なカトリック信者です。
 たまたまインターネットで多摩教会に入門講座があることを知り、近いので行ってみました。晴佐久神父やシスターのお話を聞いていて、信仰心の薄かった自分でも洗礼を受けても大丈夫なのかなと思うようになりました。毎日の生活の中で、悩みや不安であったことがとてもちっぽけなことであり、救われるのだと知りました。
 毎週多摩教会に行って、一週間を振り返り、反省をし、また一週間のエネルギーをいただいて帰っています。

受洗によせて

香川 瞳(仮名)

 幼い頃から、祖母の影響で教会や神様について触れる機会がたびたびありましたが、私自身は教会に通ったことやカトリックの教えを受けることはありませんでした。18歳か19歳のとき、祖母に「瞳ちゃんも教会で神様の勉強をしたらどう?」と言われたことがきっかけで、今までちゃんと知ることのなかった神様の存在について考えるようになり、しばらくして母を誘って近くにあった多摩教会に通うようになりました。

 実際に教会に通い始めると、今までカトリックとほとんど関わりをもたずに生きてきたのに、不思議と聖書や神父様の話がとても身に染みて感じられ、すごく自然なことに思えてきて、なぜ自分は洗礼を受けず、神様を知ろうともせず、ここまできてしまったのかと、すごく後悔に似た気持ちすら持つようになり、せめてこれからの人生は、絶対神様と離れたくないと思うようになりました。ですから洗礼式が無事終わり、嬉しいという気持ちよりも、やっと神様に認められたという安心感の方が大きいように思います。
 まだ実社会での後遺症(?)のような考えに支配されそうになるときがありますが、もっと神様や教会のことを知りたいし、身近に感じたいし、かかわっていけたらと思っています。